55人が本棚に入れています
本棚に追加 はやる気持ちの俺をよそに、課長は浮かない顔でのろのろと歩いている。置いていってもバチは当たらないだろうが、なんとなく気になってしまってそれとなく様子をうかがってみる。
「気分はどうですか?」
「ああ、もう大丈夫だ」
その割には沈んだ声じゃないか。
「まさかとは思いますが、落ち込んでるんですか?」
課長はあっさり頷いた。
「そこまでとは思ってませんでした」
「君は遊びかもしれないが、私は……」
「あ、割と本気でした?」
すかさず突っ込むと課長は暗がりでもわかるくらいに顔を赤くし、吐き捨てるように言った。
「もう若くないからな」
マッチングサイトを通して送られてきた、普段の課長からは考えられないような甘ったるいメッセージを思い出す。今から思えば、どうにか逢うところまで漕ぎ着けるために、かなり熱がこもっていた。まあ俺の方も結構ノリノリだったのだが。
「まあプロフィール欄の時点では、俺って合格なんですよね」
「そうだ……そうなんだ」
絞り出すように答えて、課長は深く息を吐いた。
「君も迷惑だろう?上司が相手なんて」
むしろ俺に迷惑だと言って欲しいような口ぶりだ。なんだかズルいな。
「俺がそう言ったら、今日のことは無かったことにしてくれるんですかね」
「もちろん、忘れるつもりだ」
「うーん、そっかあ」
月曜日に出勤したら、課長はいつものように俺を叱り飛ばすのかな。課長はともかく、俺は普段どおりに振る舞えるかな?思わず笑ってしまう気がする。
迷惑……なんだろうか?
さっきまで早く別れてしまいたかったはずなのに、忘れられてしまうなんて、だんだん惜しいような気分になってきた。
ヘッドライトが課長の顔を瞬間的に照らす。端正な横顔が浮かび上がり闇に沈む。
「えーっと」
俺は課長の反応を確かめたくて、思わず訊いてしまった。
「それならいっそ、付き合っちゃいます?」
「なっ……」
課長は目を見開いて固まっている。半年くらい前に俺がうっかり会社のパソコンを電車の網棚に置き忘れたときより驚いているんじゃないか?ちなみにパソコンは忘れ物として駅に預けられていて俺はクビを免れた。
しばしの沈黙。
自動車の行き交う音だけが響く。
きっと激怒して帰ってしまうだろうと俺は予想していた。むしろその方が、月曜日にはお互いにスッキリしているんじゃないか。
「……」
あれ?
課長は怒鳴るどころか、頬に手を当てて考えこんでいるようだった。そこ、悩むところ?もしかして、まんざらでもない……のか?
課長が顔を上げた。
「き、君が、そのつもりなら……」
声がかすかに震えている。真っ直ぐ見つめられて、俺は胸が苦しくなってきた。
「本気ですか?」
課長は頷いた。今さら冗談ですとは言えない。
「あの、課長」
「その呼び方はやめて……」
俺はすこし迷った。口に出したら後戻りできないような気がした。しかし、欲望が勝ってしまった。要するに……課長を抱き締めたくなったのだ。
「ハルさん」
声がかすれてしまって、俺は何度も唾を飲み込んだ。課長……いやハルさんの手を握ると、肌寒い夜なのにじっとりと濡れている。ふと、長谷川産業の工程表のことが頭に浮かんだ。こんな時にどうしたんだ、俺らしくもない。
俺はハルさんの背中に腕を回した。
月曜日がどうなろうと、もう知ったことじゃない。
おしまい

最初のコメントを投稿しよう!