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「九龍城」・・・
九龍城とは、香港の現在の香港・九龍の九龍城地区に造られた城塞の事である。
1960年代後半から1970年代にかけては鉄筋コンクリート(RC造)のペンシルビルに建て変わったものの無計画な建設のために九龍城砦の街路は迷路と化し、「九龍城には一回入ると出てこられない」とも言われるようになった。また行政権が及ばなかったために売春や薬物売買、賭博、その他違法行為が行われ、中国語で「無法」地帯を意味する「三不管」(サンブーグヮン)の地域と呼ばれるようになり、黒社会(暴力団)である三合会の拠点となっていた[2]。
『プロローグ』
1987年1月14日、香港政府は九龍城の取り壊しを発表した。それと同時に住民には立退きの命令が下された。
九龍城の住人たちは「ついにこの時がきた」と思ったに違いない。
立退きはその名の通り、5万人の人々が住んでいるその巨大な建物から一人残らず出ていくことを意味した。
私は、ここを出た後の自分の未来が想像できなかった。それ故に立ち退きの命はショックだった。でも、そこに長らく住んでいた人達、そこで生まれた人達はどのくらいショックだっただろうか。無法地帯、入ると2度と生きて出られないと噂されていた九龍城だけども、そこを知っている私にとってはそこは人々の生活の場であり、コミュニテイの場であったと思う。
今は閑静な公園となったその場所を訪れるたび、私は思い出す。
あの時、彼と見た夜のライトがきらめく九龍城。その灯りの一つ一つが人々の暮らしている証、そんな夜の九龍城。それは生涯絶対に忘れることはない。
あの場所は今はもうない。
ただ、あの時の私たちは確かにその場所で生きていた。
コンクリートの建物、いくつもの部屋を積み重ねて作られた違法建築物。薄暗く陽もろくにささないあの場所。剥き出しのケーブルが何十本もはりめぐされている天井。そこで暮らす人々の笑顔。
私たちの九龍城で、私たちは確かに生きていた。
①
「交代の時間よ、ジェイド」
顔を上げると九龍城の中にあるバー「Cipher」のスタッフで私の同僚、アニタが前に立っていた。
私はカウンターに座って、今日の売上の詳細を帳簿に記入していたところだった。時計を見ると針は夜の11時を指している。退勤の時間だった。急いで残りの売上を書き上げ、帳簿を閉じた。
「お疲れ様。客入りはいつもと特に変わらない感じ。ハイネケンがもう少しでなくなりそうだから、補充したほうがいいかも」
アニタは黒髪ショートボブで真っ赤な口紅をつけた、キリッとした女性。歳は私より年上の23歳。私のことを妹のように面倒を見てくれる姉さんタイプの女性。私はそんな彼女と気が合った。アニタは、頷いた後、真面目な顔をしてこういった。
「了解。帰りは気をつけなよ。新義の一味がそこら辺ウロウロしていたから」
「うん。大丈夫。ドクター李のところへ寄って、母さんの薬をもらってすぐ帰るから。今日はヘトヘトな感じで、、、」
私はため息をついた。
「、、、そうならいいけど。最近、新義の奴らははあまりよい噂を聞かないよ。まあ、うちのエリアは13Kグループのエリアだけどさ。」
九龍城の中にあるバー、サイファで働き始めてから1年半ほど経つ。そのくらい働いていれば、九龍城のいろいろな情報が入って来るものだ。
そもそも、九龍城とは香港の九龍地区にあるコンクリートのビルがひしめき合って建っていて、巨大な一つの建物に見えるものだ。世間では、「悪名高い九龍城」と噂は広まっていて、入ったら2度と出ては来られないと言うものまである。
そして九龍城では、2つの秘密結社の組織がナワバリをはっていた。一つは新義というグループ。このグループは、悪名が絶えないグループで、九龍城の中で売春・賭博・麻薬等なんでもありで、しかもメンバーの行動が目にも余る様な悪い噂しか聞かない。
もう一つは13Kというグループ。こちらは同じ秘密結社という括りだが、メンバーが揉め事をあまり起こさない。きちんと規範にそって行動するグループらしい。もちろん、彼らもいろんなことをして収入源を集めているのだろうけど。
この2つのグループは、「犬猿の仲」だ。
九龍城の真ん中にある「義学大楼」と言う場所から東と西にエリアを分け、東を新義が、西側を13Kが仕切っている。
それぞれのグループにはボスがいて、そしてその下にはリーダーという役割の人物がいる。新義のリーダーはミン。よい噂をあまり聞かない、危険人物。
そして13Kのリーダーはキョンと言う。
キョンは、こちら西側のエリアではとても有名な人物だ。カリスマ的なリーダーとして、仲間からの人望も厚いと聞く。
私はその名前から、彼の顔を頭に浮かべた。端正な顔、二重で切長の瞳をしていて、少し影があるような表情でクール。そして寡黙で、あまり笑ったところをみたところがない。
「13Kのリーダーって、キョンですよね」
「うん、13Kのリーダーの彼。いい男よね。九龍城で働いている女の中でも彼の女になりたい子結構いるわよ。ただクールで何考えてるかわかんないとこあるけど」
「、、、一度も話したことないな。いつもみかじめ料回収にくるけど」
「まあ、あえて関わる必要はないわよ」
「、、、そうかもね。じゃあ遅くなっちゃうので、私行きますね。」
「気をつけて。また明日ね」
私はアニタに手を振ると、サイファをでた。サイファの入り口には、赤く光るネオンサインで「Cipher」と書かれている。扉を閉めると、途端に静かになったような気がする。まだまだここからがサイファが賑わってくる時間だ。
私は九龍城の暗くてじめじめした通路を歩き出す。九龍城の通路は基本暗い。ところどろころにそれぞれの住居のドアの隙間から光が漏れていたり、灯りがポツンポツンと上からぶら下がっていたりする。天井は様々なケーブルが蛇のようにうねって連なっている。
ドクター李の医院に急ごう。
早足で歩く。サイファが遠ざかってくると、九龍城内はますます静かになってくる。噂に違わず、城内は迷路のようだ。急に階段が現れたり、急に行き止まりになったりする。ちゃんと道順を覚えていないと迷ってしまう。でもドクター李のところは頻繁に薬をとりに行っているから大丈夫。4階にあがってすぐ左にまがり3軒目がそこだ。
ドクター李の病院に到着。
暗い城内で、壁に書かれた「李医院」という手書きの達筆の文字がライトに照らされてぼんやり見えた。
入口のドアを開け、中に声をかける。
「すみません、薬を取りにきました。」
診療所の中は漢方薬の匂いがする。こんな時間のため、患者は1人もいなかった。少し待つと、店の奥から60代半ばぐらいの男性がゆっくりとした動作で出てきた。頭は白髪で真っ白で、口には白い髭を蓄えている。一見厳しそうだが、実は優しいお医者様だ。
「そろそろ来る頃だと思っていた。薬は用意してあるぞ。」
ドクター李は、カウンターの下から紙袋に包まれた薬を出してきた。
「ありがとうございます。助かります」
「母親の具合はどうだ?」
「少しずつよくなっているとは思うんですけど、、。まだ本調子ではないようです」
私は俯いて、少し声が小さくなった。ドクター李は、私の肩を軽く叩き、励ますように言った。
「なあに、すぐ良くなるさ。お前さんも大変だがな、頑張るんだぞ」
「はい、、。ありがとうございます」
私は笑顔で会釈をし、ドクター李に手を振り病院を後にした。
ドクター李は無免許の医者だ。
、、、とは言っても、医者としての経験は豊富で、九龍城の住人はドクター李にみんなお世話になっていると言っていいくらい有名だ。なんでも診るらしく、怪我や病気もなんでもこいだ。そしてその厳しく優しい人柄も皆に慕われている理由だろう。九龍城は香港政府も関与しない地帯であるため、無免許でも医者として働けるのだ
そして、診察費もすごく安い。診察費が安いのはすごく助かるため、私ドクター李のところでいつも薬を調達している。
彼からもらった薬をしっかりと胸に抱え、暗い城内の通路の元来た道を歩き始める。
さて、あとは帰るだけだ。早く帰って母さんの様子を見なければ。ここのところずっと調子が悪そうだから心配だ。悪い病気でないといいけど。
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