一、

2/4
106人が本棚に入れています
本棚に追加
/75ページ
 ――弟ができるなんて嬉しいよ (俺も嬉しかったのにな) (幸せになれると思ったのに)  けれどある日、唐突にそんな日々は終わりを告げた。 「いい加減にしてよっ」  蓉子の叫びで紘は飛び起きた。今は夜中の十二時を回っている。普段であればすでにみんなが寝静まっているような時刻だ。それなのにどうして蓉子は寝室にはおらず、そしてどうして、あんな叫びを上げるのか。紘は慌ててベッドから降りると、声の聞こえてきたリビングへと向かった。  と、明かりの漏れる扉を開こうとしたところで、ガシャンとなにかが割れるような甲高い音も響いてくる。心臓が嫌な音を立てて軋んだ。紘は一瞬だけ躊躇った。が、すぐに心を決めてリビングの中に飛び込む。  扉を開いて、紘は目を見開いた。 「うるせえな」  低い怒号が紘の鼓膜を震わせた。蓉子は壁際に追い詰められ、それに向き合うように父が立っていた。父はその肩を怒りに強張らせ、ぶるぶると震わせている。  一方の蓉子も、追い詰められている割には好戦的だった。父を睨めつけ、あたりにある手に触れるものすべてを父の方へと投げつけていた。真夜中に似つかわしくない騒音が鳴り響く。 「……やめて、」  力ない声が口から零れる。それは果たして、父と蓉子のどちらに向けた言葉だったのだろうか。紘自身にも、よくわからない。けれど少なくとも、今目の前で繰り広げられるこの状況をどうにかしたかったのだ。  けれど紘のその言葉は虚しくも、誰の耳に届くことはなかったようである。父が蓉子めがけて拳を振りかぶった。 (やめて)  紘の体が自然と動く。 (どうして、こんなことに)  足が、蓉子の方へと向かう。  一体誰のせいだったというのだろう。一体、なんのせいだったのだろう。誰が悪かったというのか。  紘は父と蓉子の間に体をねじ込む。  別に、この母親を絶対的に信頼しているわけではない。もう、母のあのぬくい手に縋っているわけでもない。もう、小さな子どもではないのだ。現実は見えている。母は、蓉子は決していい親でも、いい大人でもない。  でもどうして、こうやって蓉子をかばってしまうのか。  理由はひとつだった。蓉子の傷つくところは見たくないのだ。 (……いや、違うな)  誰かが傷つくところを、見たくないのだ。  拳が目前に迫ってくる。それをじっと見つめていられるほどの度胸は、紘にはなかった。紘は、せめてその拳を頬で受け止めようと横を向く。そして、ぎゅうっと目を閉じた。  頬骨に拳が食い込んだのがわかった。その衝撃に紘はよろめく。が、どうにか踏ん張って倒れるのは堪えた。 (この痛みを、俺は嫌ってほど知ってるから)  ふう、と紘は息を吐き出す。  と、そのときだった。思わぬ衝撃が背後からくる。まだ足下がおぼつかない紘の肩に手が置かれ、そして、紘を退けようとするように横にぐいと押された。そんなちょっとした力にも、紘の体は簡単に揺らいでしまう。そのまま、紘はがくんと床に膝をついてしまった。  視界に影が差して、自分の前に誰かが進み出たのがわかった。紘を押し退けて前に出たのは、紘がかばったその人、蓉子だった。 「ちょっと、邪魔するんじゃないわよ、紘」  そんな言葉もかけられる。顔を伏せたまま、紘は思わず笑みを浮かべてしまった。  だって蓉子の言葉は、ただただ純粋に、素直に、紘を邪険にするものでしかなかったのだから。身を挺して庇った紘のことなどはまったく気にしていない。むしろ、前に立った紘を邪魔とすら思っている様子だった。もう笑うしかないだろう。心にぽっかりと穴が空いてしまったようだった。
/75ページ

最初のコメントを投稿しよう!