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一、
母である蓉子は、とことん男運のない女だった。最初の夫であり、紘にとっては血の繋がったその男は、いつでもどこでもヒリヒリとした空気を纏い、なににでも腹を立てているような男だった。そんな苛立ちを紛らわせるためなのか、いつも酒をあおっていたのを幼いながらに覚えている。そしてその男が紘を嫌っているのは確かだった。
あの頃の紘は常に腹を空かせ、暴力に怯えていた。ただそれでも、母は優しかったと思う。紘のために最低限の食料は用意してくれたし、屋根のあるところで布団をかぶって眠れたし、それにたまに、手を握り髪を撫でてくれた。それは気まぐれの行動だったかもしれないけれど、それでも蓉子の温かくて柔らかな手は紘を安心させるものであったことには違いない。
まあ、それと同じくらい、蓉子のその手は紘を傷つけてもいたのだけれど。
ただ、蓉子はあの男の元を離れるとき、当然のように紘の手もとって一緒に連れて行ってくれたのだ。紘を置いていくことだってできたはずだ。でも、蓉子はそうしなかった。その意図は紘にはわからなかったけれど、少なくとも、紘を連れて行ってくれたという事実は変わらない。
だから、紘は蓉子を見捨てることはできなかったのだ。
腹に鈍い痛みが走る。
「うぐ」
紘の口からは低い呻きが漏れた。床に横向きに寝転がった体を、紘は腹を庇うようにくの字に丸めようとした。が、腹が突っ張るように痛くてそれもままならない。そんな紘の腹に、非情にも、また蓉子の振り上げた足が食い込む。
「あんたのせいよ」
ヒステリックな甲高い声が紘の耳を叩いたけれど、苦痛に耐える紘にはどこか遠くで鳴り響く音にしか聞こえなかった。
「おか、あさん……」
けほ、という小さな咳が零れる。
「子どもがいてもいいって、やっと結婚にこぎつけたのに。それが結局これ? 最悪の男じゃない。プライドばっかり高くて、人の言うことはなにも聞きやしない。それでも稼ぎがよければ、にこにこしながら聞き流せばいいと思ってた。だけど、特別に最高な生活を送れるわけでもない」
(お母さん、)
蓉子の言葉は、朦朧としている紘には理解するのに時間がかかった。
ただひとつ、わかることがあった。
(お母さん、泣いてるの)
実際に蓉子が泣いているのかはわからない。けれどその声は、涙が滲んでいるように聞こえた。震えているように聞こえたのだ。その震えは、もしかしたら涙ではなく、怒りからの震えかもしれないけれど。
(なんだ……)
紘は思う。
新しい家族ができたとき、紘は期待をしたのだ。暮らしはきっと、これまでよりもずっとよくなる。蓉子はきっと、もっと幸せになれる。もっと笑うようになる。そうしたら、あの母の温かく柔らかい手のひらは、紘を傷つけることをしなくなるかもしれない、と。
けれど、蓋を開けてみたら、どうだ。蓉子は幸せになれなかった。それどころか、蓉子は傷ついている。蓉子の腹にある痣を、紘は知っていた。そして紘もまた、蓉子に傷つけられ続けている。
「あんたさえいなければ、もっといい生活ができたかもしれないのに」
が、その言葉だけはしかと聞こえた。
(俺のせい、か)
紘は虚ろな目でぼんやりと蓉子を見上げる。
(結局、だめなのか)
けれど、見上げているだけの体力も気力も、もう紘には残されていなかった。紘はすぐにその目を閉じてしまう。
(俺のせいで、お母さんは幸せになれない)
だから、と紘は思う。
(だから俺も、幸せになれないのか)
――紘くんも、これからよろしくね
新しくできた兄の、優しげで心地よい笑みを思い出す。
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