第1話

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第1話

 (きぬた)がランタンに手を触れて、テントの中は暖かい光に満たされた。  俺は寝袋の上にねそべり、砧が自分の荷物の横に膝をついて、中をごそごそ探るのをみていた。俺よりひとまわり大きくて頭ひとつ背の高い竜人にとって、このテントは窮屈にちがいない。ひとりならまだしも、俺もいるのだ。それでも砧がテントを分けようといったことはない。  この森の中にテントをふたつ張れるスペースをみつけるのが大変だから、というのもあるだろう。砧が山に来るのは一年に一度、夏のあいだだけだ。砧と俺は新月の闇夜に山のふもとの森に入り、満月が来るまでここで過ごす。テントをふたつ張るために藪を切り開き、空き地をつくっても、翌年の夏になれば元に戻る。ひとつのテントで足りるなら、わざわざ苦労することはない。 「どうしたんだ?」  竜人がなかなか顔をあげないので、俺は体を起こし、寝そべっているうちに解けた髪をうしろに払った。指にまとわりつく俺の髪は真っ白で、へなへなと柔らかい。ふつう、鷲族と名乗って連想されるのは漆黒の強い髪だ。でも俺のこの髪は染めたわけでもない、生まれつきだった。  砧の髪も白い。でも彼の髪は俺みたいなへなちょこじゃない。艶のある剛毛で、短く刈られてピンと立っている。 「大丈夫か? 今日採ったやつ、足りないのか?」  業を煮やしてたずねると、砧はうつむいたままいった。 「いや。おまえに渡すものがあって――」 「俺に?」 「あった。これだ」  砧は荷物から細長い箱をとりだすと、俺のすぐ前に尻を動かし、あぐらをかいた。ランタンの黄色い光は竜人の横で揺れていて、彫りの深い顔立ちは半分影になってみえる。 「新しい眼鏡だ。かけてみてくれ」 「俺の?」  俺は反射的に鼻の上に右手をやった。ずれおちかけた眼鏡を指でもちあげ、元に戻す。砧の手がのびて、俺の左手をとった。貴重な薬草を扱うときと同じように指が動き、俺の手のひらを上に向けさせる。  砧に触られたとたん体がびくっとふるえそうになったが、俺は何食わぬ顔をしていようとつとめた。砧は革のケースの中身をそっと俺の手にのせる。 「これでずっと良く見えるはずだ」  ランタンの光を受け、レンズの枠がきらりと光った。  その眼鏡はびっくりするほど軽く、レンズにはひとつの傷も曇りもなかった。俺はまばたきして手のひらの眼鏡をみつめていた――ちょっと、驚いていたのだ。すると砧の手が近づいてきて、勝手に俺の鼻の上から今かけている眼鏡をとりあげた。 「ほら、試すんだ」  眼鏡がないと、俺の視界は近くも遠くもかすんでしまう。鷲族にはありえないことだが、俺の目は欠陥品なのだ。そっとツルをひらき、耳にかける。  砧の眼鏡は俺の顔に吸いつくようにぴったりおさまった。まるでランタンがもう一台ふえたように、周囲がぱっと明るくなったような気がした。 「どうだ?」  顔をあげると砧の眸がすぐそばにあった。 「すごい。かけていないみたいに軽い。よく見える」 「そうか。よかった」  砧は革のケースを俺の膝にのせる。 「明日から――いや、今から使ってくれ。昼間渡せばよかったのに、すっかり忘れていた」 「今からって――」俺は思わず笑った。 「明日にするよ。今日はもう寝るだろう? おまえ、夜中にひとりでどこかに行ったりしないよな?」  砧の眉がちょっとだけあがった。ああ、この眼鏡はすごい性能だ、と俺は思った。ランタンの光でも十分、細かいところまでみえる。 「……どこにも行ったりしないさ」 「ほんとか?」俺は顔をしかめてみせる。 「去年とか、その前も、夜中に目を覚ましたら、テントに俺一人だったことがあるぞ」 「え? それは……用を足していたんだ」 「にしてはなかなか戻ってこなかったけどな。去年なんか心配したんだ。ふらふらその辺を歩いて、藪に絡まってるんじゃないかって。おまえに最初に会った時みたいに」  砧の目尻がすこし下がった。きまりわるそうにぼそぼそという。 「悪かったな。あのときは……外の空気を吸いたくて」 「テント、狭いからな」  俺は腕をのばし、夜と俺たちを隔てている布を触った。 「やっぱり来年はテントをふたつにしようか?」 「いや」  砧は小さく首をふる。どうしたんだろう、と俺は思う。いつもの砧なら、もっと軽く冗談を返してきそうなものなのに。  テントに妙な重苦しさのある沈黙があふれた。俺は新しい眼鏡をそっと外し、革のケースに戻してじっくり眺めた。レンズを嵌めている枠もツルも細くて軽いし、何よりレンズそのものが信じられないくらい薄い。 「こんな眼鏡、町でも見たことないぞ。どうしたんだ」  思わずそう口に出すと、低い声がぼそぼそと返ってきた。 「月の技術者に注文して作らせた。視力が変わっていないか心配だったが、大丈夫らしいな」  え? 思わず手が止まる。俺はぽかんと口をあけた。 「……月の眼鏡だって?」 「去年機械で測っただろう?」  そういえば去年の夏、砧がへんな機械をもって、俺の顔をあれこれ調べていた、と俺は思い出した。砧はいいわけするように続ける。 「戦争で宙船(そらふね)が欠航して――届くのが大幅に遅れた。もっと早く渡すつもりだった」  竜人は空にうかぶ月の種族で、俺たち地上の種族よりずっと進んだ文明を持っている。地上には八つの種族――獣型に変身する熊、狼、猪、狐、鹿の五種族と、鳥型に変身する鴉、鷲、白鳥の三種族が棲むが、月には竜人と天人のふたつの種族がいる。まとめて月人と呼ばれる彼らは、地上の種族よりずっと古い起源をもっている。  地上の種族は月人の文明にさまざまなことで助けられていた。自動車や汽車のような技術は月人に教わったものだし、宙船で運ばれる月の品物は驚異的で、大変な貴重品だ。――つまりこの眼鏡が月で作られたのなら、とんでもない価値がある。俺はあわてていった。 「砧、待ってくれ。どうしてこんなもの、俺にくれる?」  砧は顔をしかめた。 「よく見えるといったじゃないか」 「でも、月製の眼鏡なんて、こんな高いもの……」 「見えるほうがいいだろう。本当は眼鏡を使わなくてもいいくらい――俺がおまえの目を直せればいいんだが」砧は喉がつまったように言葉を切った。 「――医者といっても、ろくに何もできん」 「おい、何をいってるんだ。俺の目は生まれつきだぞ。おまえの採集につきあって何年たつと思ってる。よく知ってるだろう」  俺はまた月製の眼鏡をもちあげ、レンズ越しに周囲をみた。  この眼鏡は軽いだけじゃない。さっきはぼんやりしていたところまで鮮明に見えるのに頭も痛くならないし、めまいもしない。視界がチカチカとまたたくこともない。 「すごいよ。砧、ありがとう」  俺は真剣にいったのに、砧は妙に暗い表情になった。 「まさか。礼なんかいわないでくれ」 「なんでだよ? 嬉しいから礼をいった」 「その程度、これまで……おまえが俺を助けてくれた分には到底足りないからな」  俺はまたあっけにとられた。 「何をいってるんだ。いつも給金を払ってくれるじゃないか」 「夏の休暇をつぶしてるってのに?」 「まあ……そうだけど。でも、村にいたって楽しいことなんてないよ」  砧が夏になるとはるばるこの山まで来るのは植物の採集のためだった。医者の彼は逆棘(さかとげ)の木の根元に生える苔を集めている。新しい薬の研究に役立つのだそうだ。  逆棘の木はこの山地の森にしか育たない低木だ。枝をびっしり覆う棘のせいで森の厄介者あつかいされ、鷲族にも獣にも嫌われているが、俺は扱いを心得ていた。  砧が初めてこの森に来たのは七年前の夏だった。最初に会った時、砧は逆棘の木の茂みに頭をつっこんでいた。棘だらけの枝が罠のように袖をとらえているのに、まるで気づかずに茂みの奥をひっかきまわしていたのだ。  この木の棘は片刃の剣のように一定の方向だけが鋭く研がれている。触る方向をまちがえるとぶあつい革の手袋ですら紙のように切断する。実際に砧の手袋は棘がかすっただけで切り裂かれてしまった。俺はあわてている砧を棘から解放して、村まで連れて行った。手袋の下は血まみれになっていたし、森でそんな匂いをふりまいてほしくなかったからだ。  俺が砧の仕事を手伝うようになったのはそれからだった。砧は無断で鷲族の森に入っていたわけではなく、長老に許可はもらっていたが、血を流して戻ってきた竜人を村の連中は嫌がった。連中が嫌がる仕事はだいたい俺がやることになるから、俺はなりゆきで砧の世話をした。  高山の中腹に棲む鷲族は伝統的に、逆棘の木を村の防御に使っている。ふもとの森にこれが生い茂ると獣は上ってくることができなくなるのだ。だからといって、鷲族が逆棘の木を好いているわけではない。人の姿で森を歩くときは、鷲族にとってもこの木は邪魔だ。通り道に逆棘の木が侵入すれば容赦なく刈りとるか、場合によっては焼き払わなければならない。春から夏にかけては、森を抜ける道の近くに若木が生えていないかたしかめる必要もある。  森の道をくまなく歩かなくてはならないこれらの作業は、翼を広げて空を舞うのが本領の鷲族にいちばん人気のない仕事だった。夏の休暇で村に戻るたび、俺はこの仕事をまかされた。鷲族なのに、鷲族らしく飛べない俺には、ちょうどいい仕事だから。 「おまえのために働いている方がいい」俺は自嘲するように笑った。 「俺は鷲族の厄介者だ。知ってるだろ? 俺は村の寄り合い所に行くことだってできないんだぞ」 「ゴーシェナイト」  砧がまっすぐ俺をみて、名前を呼んだ。  ゴーシェナイト。  そう、これが俺の名前だ。だけど都市でも村でも、みんな俺をゴーシェと呼ぶ。両親が俺をゴーシェナイトと呼んでいたのは覚えているけれど、彼らが死んだあと、俺はただゴーシェと呼ばれるようになって、短くした名前に慣れてしまった。  でも砧は俺の名前を口に出す時、みんなのように短くしないのだ。最初に名乗ったときからそうだった。 「おまえは厄介者なんかじゃない」  俺の胸がどくん、と痛くなった。痛くなるといっても、苦しいわけじゃない。砧の声はただ、俺の胸に突き刺さる。  俺は砧の目をみかえした。やっぱり憂鬱そうだった。  いったいどうしたんだろう? 俺はまた不思議に思った。今年の砧は変だ。月製の眼鏡なんて高価なものをぽんとくれて、それなのに、なんだかやりきれない、という顔をしている。 「でも」  俺は口をひらきかけた。すると砧の手が伸びた。俺の唇をふさぐように。 「ゴーシェナイト、おまえはとても優秀な助手だ。逆棘の木のことも、この森のことも何でも知っているだろう? 長老も知らないことをおまえは知ってる」
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