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第九章【その一面】撫で座頭
撫で座頭。
自分がそれになった瞬間を、明確に思い出すことはできない。
しかしカブはいつしか、それになっていた。
人間だった頃、それほどいい思い出はない。
人は誰かと関わっていかなければ生きていけないが、カブはそれが不得手であった。
しかし目がよくなかったカブは、誰かの助けを必要とする場面もあった。誰かと関わる度に、その優しさに感謝したり、蔑まれる言葉を吐かれて寂しく思ったりしたものだった。
そうしていくうちに、カブは人間というものをなんとなく理解していった。
優しさとか意地の悪さというのは誰もが持っているもので、カブが見ているのはその人間の一面にしか過ぎない。その一面を誰に見せるか。それが人によって大きく違うだけなのだと思った。
優しさも、意地悪も、ここにいない誰かの代わりに、自分がそれを受け取っている。カブはそう思うようになっていた。
住んでいた村に水害が起きたのは、成人する前の年だったと思う。
その水害で、カブの両親は死んだ。
そしてその水害を引き金に、村は立て続けに災害に見舞われた。
何年もひもじい思いをしていたように思うが、それは数ヶ月のことだったのかも知れない。嫌な思い出というのは、強く長く残るものである。
村がいよいよどうしようもなくなった頃、祭事が行われることになった。
その祭事が行われる際に、人柱としてカブが選ばれた。
どうして自分が選ばれたのかは思い出せないが、それらしい理由をいわれた気がする。そして納得した気がする。
「どうか、恨まないでほしい。お前のことは、大切に祀っていくから」
そんな言葉をたくさんかけられた。
意地悪だった人たちもカブに謝罪したり、許しを乞うたりした。
そして村人たちは明日の食事もままならない中で、カブにたくさんの食事を用意してくれた。
村人たちは自分のできる精一杯の優しさを、カブに向けてくれたのだった。
カブが人柱として人間の生を終えた後、偶然にも村の危機は去ったようだった。
そのせいかカブは約束通りに、大切に村で祀られた。
村の不幸はカブが引き受けてくれたのだと、身代わりになってもらったのだと、そんな風に理解されているらしかった。
ふわふわしていた自我が、いつの間にか形を得ていることにカブは気が付いた。
村人らの信仰のおかげなのか、それともやはり偶然なのか、カブはいつしか撫で座頭と呼ばれる妖怪になっていた。そしてカブは「撫で物」と呼ばれるネコの姿になっていた。
相変わらず目はよくないが、なぜか人の不幸だけはよく見えるようになっていた。
そしてカブは、自分がどんな姿であっても誰かに優しくされたり、意地悪をされたりする頻度は、それほど変わらないのだと知った。
人間の頃は気まぐれなそれらを、ただ享受して生きていくことしかできなかった。しかし撫で座頭となったカブは、与えられたものを受け取るばかりの存在ではなくなっていた。
優しくしてくれた者の不幸は取ってやった。そして意地悪な者には、その不幸を擦りつけた。
そんなことをくり返すうちに、だんだんと気が晴れていった。
カブは人間として生きた十数年を、人柱として消費された自分の生を、何百年もかけて清算していったのだった。
そうしているうちに人の不幸を拝借することも、それを擦りつけることもしなくなった。
しかしその日はめずらしく、この娘の不幸を拝借しようと思った。
◇
その娘は以前、浜辺で困っているカブを助けてくれた。
浜辺に捨て置かれた網にカブの長い爪が引っかかり、もがけばもがくほどに絡まっていった。カブがそうしている間に、その娘がこちらに気付いたのだった。
その娘は根気よくその網を解いてくれた。
その様子を見つめる間に、娘がひどく面倒が感情を抱えていることに気がついた。そしてそう遠くないうちに、その感情にまつわる不幸が訪れることが感じられた。
網を解いてくれた後で、娘はカブの頭をひと撫でして去っていった。
その娘はまだ子どもであり、つまりは弱者だった。
子どもはいつの時代も、誰かに守ってもらわねば生きていけない。成人するまでは、生まれた場所でどうにかして生きていくしかない。しかし生まれた場所に適応できる者ばかりではない。子どもは少なからず我慢を強いられて生きている。
カブも人間だった頃は、強くそう感じていた。
自分の置かれた環境が合わないというだけで、世界から爪弾きにされたような気分になったものだった。そしてまだ見ぬ場所に自分の本当の居場所があるのではないか、なんて考えたものだった。
それを鮮明に思い出したのは、娘がカブと似たような感情を持て余していたせいなのだろう。
網を外してくれた恩もある。
もう一度出会ったら、その不幸を拝借してやろうとカブは思った。
そしてほどなく、その時は訪れた。
人間が時々足を止める箱の上で、カブは波の音を聞いていた。
そうしていると、その娘が現れた。
娘はカブの乗っている箱の中に、封筒を落とした。
そして娘は再び、カブの頭を丁寧に撫でた。
その際に、カブは娘の不幸を拝借した。
その不幸は、おそらくカブも持っていた何かであった。
しかしそれがなんだったのか、カブにはもう思い出せなかった。
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