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第十章【天国という場所】美羽
ふと目を覚ますと、茶色いネコの姿があった。
実家にネコはない。なぜここにネコがいるのだろう。
しかしそれ以上に、奇妙なことが起こっていることに気が付いた。
美羽は自分がどうやってベッドに戻ったのか、まるで覚えていなかった。寝ぼけた頭を正常に働かせるために、美羽はゆっくりと上半身を起こした。
たしか自動販売機で炭酸飲料を飲んでいたはずである。そして高校生の頃の自分に出会ったように思う。
しかしその後のことは、やはり思い出せなかった。
そもそも自分が自動販売機にいったことも夢だったのだろうか。
答えを求めるようにネコを見つめても、ネコはなにを伝えるでもなかった。
しかしどうしてか、このネコが自分をここまで運んできてくれたように思えてならなかった。美羽がネコに手を伸ばすと、ネコはそれを逃れるようにして窓の方へ向かった。
ここに長居する気は毛頭なく、ここから出たいらしい。
何はともあれ、ネコの意志は何よりも尊重されるべきだと思った。
まだぼんやりする意識のままで、美羽は部屋の窓を開けた。ネコはするりと美羽の部屋から出ると、こちらをじっと見つめた。
別れを惜しむように、美羽は再びネコに手を伸ばした。すると今度は、ネコはそこに頬を寄せた。
ネコの頭を丁寧に撫でると、なんだか胸が痛くなった。
◆
美羽は幼い頃から「伊咲屋の娘」として、周知されていた。
そしてそれは、大人になった今も変わらない。
地元も家族も嫌いではない。むしろ好きである。
しかしいつからか、自分はこの環境で生きていくことに向いていないと思うようになった。
徒競走で何位だったとか、母の日には何をあげたとか、遠足のお土産はなんだったとか。そんな些細なことを、近所の者や伊咲屋の従業員に知られているのが常だった。
大人たちは、美羽が大切に思っているものを会話として消費する。
外で大人とすれ違う度に、どこへいくのかと声を掛けられた。その度に、なんだか水を差されたような気持ちになったものである。声掛けには、防犯の意味もあっただろう。しかし、そこに彼らの好奇心がなかったとも言い切れないと思っている。
周囲の大人たちは、悪気も配慮もない。ただそれだけのことだった。
そして小さな無数の傷は、いつしか大きな傷となっていた。
美羽がどれだけ傷ついても、加害者はいなかった。
大人たちはみん美羽に親切だった。自分が恵まれた環境にいることも、美羽自身はわかっていた。
だからこそ、それを享受できない自分が矮小な存在に思えた。
そしていつからか、大人たちに声を掛けられても頭を下げて会話から逃れるようになった。
誰かと目が合うと、とりあえず頭を下げるようになった。
それが数え切れないほど積み重なるうちに、この土地から離れたいという気持ちも比例していった。
――知らない場所って、怖くないの?
いつか誠にそんなことをいわれた。
――知ってるこの場所の方が、ずっと怖い
いつかの自分はそう答えた。
高校三年生の冬。
第一志望の大学に合格し、家を出ることが決定した。
美羽は入学に必要な書類を投函するために、海沿いのポストへと向かった。
郵便局やコンビニで投函することもできたが、やめておいた。地元で働く者は、公務員を含めて両親の知り合いであることが多い。そのため声を掛けられる可能性は充分にある。
美羽がどの大学に合格したとか、そんな話はすでに周知のはずである。しかしそれについて何かをいわれることが、心から面倒だった。それが例え祝いの言葉であろうと、なにも聞きたくなかった。
海沿いのポストに向かう間、自分は本当にこの土地から去るのだなと思った。
嬉しさも大きかったが、それなりに寂しさがあるのも事実だった。
海沿いのポストの上には、香箱座りをしたネコが両目を閉じて鎮座していた。そのネコはどこかで見たようにも思った。それが気のせいではないのか、ネコは美羽が近づいても微動だにしなかった。
書類を投函した後で、美羽はネコの頭を撫でた。
ネコは薄く片目を開けたが、それだけだった。
そうしているうちに、先ほどまで抱えていた寂しさのようなものが薄らいでいった。
◇
その寂しさを思い出したのは、それから数年後だった。
その日のことは妙にはっきりと覚えている。
大学三年生の五月だった。
本日のように海面がきらきらと輝く夕暮れ時に、美羽は地元の駅に到着した。
駅を出ると、浜辺の方から子どもたちのはしゃいだ声が響いていた。浜辺に下りると、三人の子どもたちと、車椅子に座った懐かしい姿が見えた。
四人の表情は光る海の影になって見えなかったが「これ以上楽しいことはない」という感じで、笑い合っているようだった。
天国という場所があるなら、きっとこんな感じなのだろうとも思った。
そちらに歩いていくと、子どもたちは美羽を歓迎してくれた。そしてまたすぐに、彼らにしかわからない遊びの世界へと戻っていった。
「こんにちは。お久しぶりです」
美羽は車椅子の彼女に声を掛けた。
彼女は穏やかな口調で「おかえりなさい」といった。
それから彼女は、大学生活はどうかとか、勉強はどんな感じだとか、そんな質問を美羽にした。
地元にいた頃は、こんな風に質問をされる度に苦々しく思ったものである、
しかし今は、その質問がありがたいようにさえ思った。
大人から質問をしなければ、子どもと会話をするのは難しい。幼い双子たちと会話をするようになってから、美羽はそんな風に思えるようになった。
「勉強は、楽しいです。院に進学することも考えてはいるんですけど、就職先が限られる分野なので。このまま好きなことを続けていていいのか、少し迷ってます」
美羽は彼女の質問に、正直に答えた。
美羽たちが会話をしている間にも、三人はぱたぱたと何度か競走をしていた。
小学生になったとはいえ、毅と双子の体格にはそれなりに差がある。体格と関係あるのかは不明であるが、競走ではいつも毅が一番のようだった。それでも三人は、何度も競走をして遊んでいる。
そして三人は再び、彼女にスタートの合図をお願いした。
彼女が合図を出すと、三人はまた勢いよく走り始めた。
「この子たち、なんで何度も競走すると思う?」
合図を出した後で、彼女は美羽に問うた。
「えっと。楽しいから、ですか」
美羽は思ったことを、そのまま口にした。
「そうね。その通りだと思うわ」
彼女は静かに微笑んだ。
倒れる以前は、こんな風に穏やかに笑う人だとは思っていなかった。
「一番の理由はそれだと思うんだけどね。何度もやると、誰が勝つか分からなくなるのよ」
美羽は思わず「え」と聞き返した。足の速さというのは、一朝一夕で変わることがないと思っていたためである。
「そうなんですか? タケちゃんが、手加減をするわけじゃなく?」
美羽は聞いた。
彼女はどこか嬉しそうに「毅はまだ、手加減はできないわね」と笑った。
「ただね、何度も競走してると毅は疲れるのよ。双子よりも、少しだけ早く」
三人は当たり前のように何度も競走しているが、考えてみれば疲れないわけがないのだった。
「だからね。そろそろ、誰が勝つか分からないわよ」
彼女はどこか楽しそうにいった。
「それをわかっているから、何度も競走するんでしょうか」
「きっとなにも考えてないわ。どこまでいっても、ただ楽しいだけなのよ。そうしているうちに、勝負が分からなくなるだけなの。そしてまた、楽しくなるのよ」
彼女はそういって、三人の小さな背中を見つめた。
「だからというわけじゃないんだけどね。好きなことは、どれだけ続けてもいいと思うのよ。環境が許す限りは、誰かに迷惑をかけない限りは、学び続けてもいいんじゃないかしら」
彼女は、美羽の先ほどの言葉に答えてくれているらしかった。
そして「無責任なことをいうようだけれどもね」と続けた。
「あなたがどんな道を選んでも、私は応援するわ。どこにいても、あなたの味方になる」
その言葉を受けて、なんだか涙が出そうになった。
「この子たちがなにかに困ったり、迷ったりした時には、あなたが味方になってあげてね」
三人がそうなる頃、自分にはそれができないから。
彼女の言葉はそう続きそうだった。
「外にいる人にしかわからないことも、たくさんあるでしょ。この子たちはあなたが近くにいてくれて、とても幸運だわ」
伊咲屋を継いで欲しい。そんな風にいわれたとは、一度もない。
しかし心のどこかで、伊咲屋を継ぐのは自分の役目なのだろうとも思っていた。さらには周囲の者も、そんな風に思っているように感じることがあった。
だからこそ地元を離れた自分は、伊咲屋を継がない自分は、地元の者にとって無価値な人間になったのだと思った。
しかし地元を出た今も、変わらぬ愛情を向けてくれる人がいる。自分に期待してくれる人がいる。その事実がうれしかった。
美羽は「ありがとうございます」というのが、やっとであった。すると彼女は、車椅子のハンドルに手を置く美羽の手を優しく撫でた。
「大丈夫。大丈夫よ」
彼女は何度もそういってくれた。
凍っていた自分の一部が、静かに溶けたように感じられた。
夕暮れの海辺は眩しく、目に映るすべてのものが優しく見えた。
そして笑い合いながらこちらに戻ってくる子どもたちを見つめて、自分はここを捨てたのだと改めて思った。
天国と見間違うようなこの場所を、自ら望んで離れたのだった。
地元を離れたことを、後悔することはない。それでも、ここで生きられなかった自分を少しだけ悲しく思う。
それは郷愁とか望郷とか、そんな風に呼ばれる感情かも知れなかった。
◆
その時の痛みが、ネコを撫でる手から伝わってくるようだった。
ネコは美羽の手から離れると、ふわりと夜へと消えていった。
胸の奥がちりちりと痛む。しかしそれらは、すでに消化した感情であった。
自分の物語は、地元を離れてからも更新され続けている。ここを離れても、どうにか生きている。
その事実が誇らしいような、苦いような、そんな気持ちになる。
――どこにいても、あなたの味方になる
ここでは、色んなものに守られて生きていた。
それは紛れもない事実だった。
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