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第二章【値踏み】波浪
朔馬が我が家に住み始めてから、二ヶ月が経とうとしている。
彼がいる生活は、すでに私の日常になっている。
それはつまり、ネノシマに行き来したり、妖怪と出会ったり、そんなことが日常となったことを意味している。
しかし私の生活が大きく変わったかというと、そんなことはない。私は自分の日常を過ごす中で、その奇っ怪な出来事に出会っているというだけである。
その奇っ怪な出来事を含めて、私の日常になっているというだけである。
風呂上がりにリビングに向かうと、朔馬が一人でゲームをしていた。
朔馬が一人でゲームに興じるのは、それなりにめずらしい。しかし先ほど凪砂が入れ違いで浴室に向かっていったので、惰性で続きをしているのかも知れなかった。
ゲームをしていた朔馬はこちらを振り返ると「おかえり」といった。私は「うん」と返事をした。
「凪砂、今日は走ったのかな」
私は冷蔵庫から麦茶を取り出しながらいった。
「うん。ハロがお風呂に入ってから、走りにいってたよ。ちょっと前に帰ってきたんだ」
長風呂をしていたつもりはないが、時計を見るとそれなりに時間が経っていた。
凪砂は最近、日が暮れた後に近所を走っている。それを日課にしようとしているらしく、現時点では決意してから毎日続いているようである。
私がソファーでだらりとする間も、朔馬は真剣にゲームに取り組んでいた。一人でゲームをするのはめずらしいねと声を掛けると、レベル上げと素材集めを毅に頼まれているのだと朔馬は誇らしげにいった。
毅は近所に住む幼なじみであり、凪砂と朔馬のクラスメイトでもある。
毅は人を使うことに一切のためらいがないので、私も凪砂もよくそんなことを頼まれていたものである。
しばらくだらだらしていると、朔馬はなにかに気づいたようにリビングのドアの方を振り返った。
こういうことは以前もあった。
「茶室?」
私は聞いた。
朔馬は「うん」といって立ち上がったので、私もそれに続いた。それから私たちは廊下に出て、茶室へ向かった。
我が家の茶室は現在、妖怪たちの駆け込み寺として開放している。
どういう仕組みなのか詳しくは分からないが、茶室に来訪があると朔馬は感知できるのである。
つまりは困りごとを抱えた妖怪が、今宵も我が家の茶室に訪れたのだった。
茶室を開放して数日であるが、それなりに来客がある。門戸を開くと何かしらは集まってくると理玄がいっていたが、本当にその通りであった。
◇
私たちは茶室に入り、にじり口を少しだけ開けた。
その後で朔馬は「どうぞ」と声をかけた。
にじり口付近に何かがいる気配はある。しかし来訪者は、なかなか茶室に入ってこない。
不審に思ったので、私と朔馬はにじり口から来訪者の顔を覗いた。
そこには深編笠を被った僧侶が立っていた。
「人、じゃないよね?」
ここを訪れるのは人外であると思い込んでいたので、私は少し驚いた。
「人に化けてるんだ。なんとなくだけど、かなり長生きしてる妖怪みたいだ」
それから朔馬は改めてにじり口の方を向いた。
「ここは、術の類を解かないと入れないんだ。こちらに敵意はないから、安心して欲しい」
朔馬は来訪者にいった。
それからほどなく、にじり口からするりと茶色いネコが入ってきた。
「狐狸の類かと思ったけど、ネコだったのか」
朔馬はいった。
「ここに来れば、困りごとを解決してくれると聞いた」
ネコはそういうと、畳の上にちょこんと座った。
人語が得意でない妖怪もいるが、今回はそうでないらしい。さらにはその所作を見る限りでは、人間に慣れているようにも思われた。
「解決できるかはわからないけど、できる範囲で力になるよ」
朔馬がいうと、ネコは値踏みするようにこちらを向いた。
「見鬼が二人だな。なぜこんな酔狂なことをしているのか、聞いてみたいものじゃ」
見鬼というのは、私たちのように妖怪の類が見える人間のことである。朔馬いわく、ネノシマに住む者は全員が見鬼らしい。
「俺はネノシマから逃げてしまった鵺の討伐を命じられて、日本にやってきたんだ。名は朔馬」
それから朔馬は、私のこともカブに短く紹介してくれた。
「鵺が日本に逃げたのは、ネノシマの失態だ。だから鵺の影響でこの辺の妖怪になにかあった場合は、俺が対応するべきだと思ってる」
ネコはその回答に納得したように「ふむ」といった。
「ネノシマからの使者というわけか。ワシの名はカブじゃ」
「名前があるのか。やはり永く生きてる妖怪なのか」
朔馬の反応を見るに、妖怪に名があるのはめずらしいのかも知れなかった。
「それなりに永く生きている。ただ、ワシは元々人間だった。カブというのは、その時の名じゃと思う」
カブは他人事のようにいった。
それからカブは「本題に入ろう」と、静かにいった。
「ワシは人間から、災厄や不幸を少しばかり拝借することができる」
私も朔馬も「へぇ」と声を揃えた。
「拝借したそれは、気に入らぬ人間に擦りつけることができる。つまりは身代わりにできる。ワシはそうやって、たまに遊んでいる」
妖怪のいう遊びは、人間にとってはなかなか迷惑になることが多い。
「しかし今、拝借した不幸が腹の中で暴れていて困っている。どうにも鵺の影響で、制御ができなくなっているようじゃ」
「それが制御できなくなると、どうなるんだ」
「おそらく勝手に、元の持ち主へと戻る。しかしこの不幸は、拝借した時よりも厄介なものになっている可能性がある。どんな不幸として持ち主に返るのか、ワシにもわからぬ」
カブはそういって、自分の腹を見つめた。
ネコの姿をしているので、その仕草は大変愛らしく見えた。しかし朔馬はそんな感情は一切ないらしく「それは、穏やかじゃないな」といった。
「ところで君は、撫で座頭という妖怪か」
朔馬はカブを見つめた。
「いかにも」
カブは座り直した後で、そういった。
朔馬はさほど気にした様子もなく「そうか」といっただけだった。
「カブがそれを制御できなくなる前に、なにか手を打つ必要があるな」
朔馬がいうと、カブは「うむ」と肯定した。
「制御ができなくなる前に、ワシの意志でこの不幸を元の人間に返したい。そうすれば、拝借した不幸は当時のままで返すことができる」
カブはいった。
「つまり、その人間を探せばいいんだな」
「そうして欲しい。あと二、三日はワシの腹に留めておくことができるとは思う」
朔馬は「わかった。協力する」と、はっきりいった。
「どんな人間だったか、覚えてるか」
朔馬の質問に、カブは私の方をじっと見つめた。
私もカブを見つめたが、微妙に目が合わなかった。もしかしたらカブは、あまり目がよくないのかも知れなかった。
「娘であったな。年齢も、お前たちと同じくらいだったはずじゃ。しかしそれ以外は、あまり覚えておらぬな」
カブはそういって、スンスンと鼻を動かした。
「その人物に関することでなくても、手がかりになる情報があれば助かるんだけど。他に、なにか思い出せないか」
カブは「どうだったかな」と唸った。
「ワシはその人間に出会ってから二度は眠ったからな。しかし、そうじゃな。出会った場所は、ここから遠くなかった。海が見える場所で撫でられた」
「海が見える場所というのは、外かな」
「外じゃった。それは間違いない」
「じゃあ出会った場所は、すぐにわかるかな。明日一緒に海岸沿いを歩いて、その人と出会った場所にいってみよう。その人を探す手がかりになると思うから」
カブは「うむ」と、深く頷いた。
「ワシはここ最近は、ずっとこの辺にいる。お前たちが海岸を歩いていれば、顔を出すことにする」
カブがそういったので私たちは明日、適当な時間に海岸にいく約束をした。
◇
「カブに出会った人って、見鬼なのかな」
カブの話を共有すると、凪砂は髪の毛を拭きながらいった。
私たちが茶室から出ると、凪砂は風呂から出たところであった。
「ネコの姿なら、見鬼じゃなくても見える気がするけど。どうだろう」
朔馬は私にいった。
「ネコの姿なら、普通の人でも見える気がする」
私は正直な感想を述べた。
「色んな姿になる妖怪なの?」
凪砂はいった。
「ここに来た時は、人間の格好してた。元々は人間だったみたいだから、人に化けやすいのかな」
「え、元は人間なの?」
「そういう妖怪も中にはいるよ。多いわけじゃないけど」
朔馬は当たり前のようにいったので「そういうこともあるらしい」と、私も凪砂もそれを受け入れた。
「カブの拝借した不幸って、なんなんだろう。その人が持っていたものとはいえ、不幸を返すって大丈夫なのかな」
凪砂はいった。
「撫で座頭が拝借できる不幸は本来、ちょっと転ぶとかその程度のものだから大丈夫だよ」
「ちょっと転ぶ、か。地味に嫌だな」
「だからカブは、気に入らない人間を身代わりにして遊ぶんだろうね」
「そんなことしてどうするんだ」
凪砂は不思議そうにいった。
「面白がるだけだよ」
朔馬が即答すると、凪砂は「狸囃子もそんなこといってたな」と納得した。
不運を拝借するという意味では、カブはある者にとっては気付かぬ幸運をもたらす妖怪なのだろう。そして別の者にとっては、誰かの身代わりに不運を擦りつけてくる面倒な妖怪である。
カブがどんな妖怪なのかは、出会った人間によって感想が違うだろう。
しかしそれは妖怪に限らず、人間も同じであると思い直す。
出会った誰かにどんな影響を受けるのかは、誰にもわからない。
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