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第四章【赤子の声】理玄
夏になるとお祓いの依頼が増える。
凪砂になぜだと聞かれた際、理玄は「一部の人間が暇になるから」と答えた。
しかし今なら「あらゆる生き物が活発になるせいだ」と答えるかも知れない。
◇
「さっき、孫が死にかけたらしいんです」
夫人は困ったような感じで、理玄にいった。
七月末のこの時期は、僧侶の理玄にとっては棚経と卒塔婆書きで忙しい。普段から交流のある者は、それを理解してくれている。そのため、棚経を終えてお茶を勧められることはほとんどない。
しかし夫人は「ちょっと聞いて欲しいことがあるんです」と、理玄を引き止めたのだった。おそらくなにか理由があるのだろう。本日は時間に余裕があったので、理玄は夫人の話を聞くことにした。
そして彼女は、先ほどの言葉を吐いたのだった。
「今朝の話なんですけどね」
夫人はそういって、静かに話を始めた。
夫人の孫が、父親と二人で近くの公園に遊びにいった。
それが今回の件の発端だった。
孫は四才で、その母である夫人の娘は現在第二子を妊娠中である。最近はつわりで体調不良が続いており、寝込む日も多い。母の変化のせいなのか、四才児は最近とても機嫌が悪い。
今朝も寝起きから機嫌が悪く、朝食を食べさせるのにも苦労したらしい。
あまりにも機嫌が悪いので、父親は朝食後すぐに四才児を連れて近くの公園に向かった。
その公園には浅い川が流れており、四才児は機嫌よく川遊びに興じた。
しかししばらくすると「赤ちゃんの声がする」と、四才児はいった。父親には、そんな声は聞こえなかった。
母親のお腹の中には赤ちゃんがいる。だから今は体調が悪いのだと、四才児には伝えていた。その影響で、赤ちゃんがどうのと言い始めたのではないかと父親は思った。父親は「大丈夫だよ」と、四才児をなだめた。
しかし四才児は「怖い」と父親にしがみついた。父親は、何が怖いのかを聞いてみた。
こっちを見ている女の人がいる。四才児はそういって、川沿いにある一本の樹木を指した。しかし父親の目にはやはりなにも見えない。
四才児があまりにも怯えた様子だったので、父親は場所を移動することにした。日陰が多い場所を選んで川遊びをしていたが、日なたの方へと移動したのだった。
それから四才児は、再び機嫌よく川遊びをした。
そんな四才児を見つめながらも、父親は四才児の先ほどの怯え方が気になっていた。やはり母親の変化を敏感に感じとって不安定になっているのだろうか。それとも本当に四才児は何かを見たり聞いたりしたのだろうか。
父親はそんなことを考えながら、携帯端末で公園の情報を調べてみることにした。
そのちょっとした隙に、四才児は川で転倒し、溺れかけた。
四才児の意識はあったものの、二人はすぐに帰宅した。
そして帰宅後すぐに、四才児は嘔吐した。
父親は、四才児が川で溺れかけたことを母親に説明した。
母親は四才児に二次溺水の兆候があると判断し、すぐに病院に連れていった。
結果、四才児は大事には至らなかった。
「事情を聞いた時に旦那を罵倒してしまったのだと、泣きながら電話が来たんです。言い過ぎたようにも思うが、まだ許す気にもなれないと。妊娠中ですし、とりあえず落ち着くようにとしか言えませんでした」
夫人は苦笑した。
「それは大変でしたね。でもお孫さんが無事でなによりです」
「ええ、孫が無事でよかったと思います。ただ、その内容が気になりまして」
理玄は急かすことなく、夫人の言葉を待った。
「川で赤子の声がするというのは、その川に何かあるのではないかと思いまして」
理玄は「ほう」と、相づちを打った。
「理玄さんは、川赤子という言葉をご存知かしら。現象だったか、妖怪の名だと思うんですけども」
理玄は首を振った。
「川で赤子の声がしても、その実体はどこにもないんです。ただそれだけの話です。それを川赤子というんです」
「なるほど」
「浴槽で溺れる幼児もいますし、子どもが川で溺れることはめずらしくもないでしょう。でも赤子の声を聞いたという、孫の言葉が気になってしまって」
夫人は苦笑した。
「孫は見えやすい子なのかも知れません。そう思うと、理玄さんにこの話を聞いてほしくなってしまったんです」
夫人の気持ちはわかるように思えた。理玄はいわゆる、見えやすい人のためである。
「どうか、一目でいいので現場を見てきてくれませんか。見てきてくれるだけで、だいぶ気持ちが楽になりますので」
孫がもう、危険な目に合いませんように。
夫人はそういって、理玄に布施を渡した。
◇
依頼というわけではないのだろう。
しかし彼女は一刻も早く、その現象をどうにかして欲しいと思っている。
その想いの強さが、お布施の額に直結しているようだった。
理玄は雲岩寺に帰り、狸丸に依頼の内容を告げた。
「人間の子どもは、妖怪がなにもしなくても、常に危ない目に遭ってるんだろ」
狸丸は理玄が買ってきた唐揚げを、縁側の下でむしゃむしゃと食べながらいった。
まだ午前中であるが、日差しが強いので日陰に入ったわけである。
「タヌキの子どもだって、そう変わらないだろ。子どもというのは、常に危なっかしい存在だ」
「それはそうだな」
狸丸は素直に同意した。
「こんなに布施を弾んでもらった手前、なにもしないわけにもいかないからな。とりあえず、様子を見てきて欲しいんだ」
理玄は、縁側でそうめんをすすりながらいった。
「場所はどこなんだ?」
理玄は狸丸に、公園の名を告げた。
◆
「で、なにかいたの」
凪砂はいった。
後部座席に座る凪砂の膝の上には、狸丸が乗っている。狸丸はいつもなら朔馬の膝の上に乗るが、本日は凪砂に呼ばれたのでそちらにいったのだった。
「変な感じはしたけど、よくわからなかった!」
狸丸はいった。
「狸丸がよくわからないものを、俺が見える気もしないからな。君らを呼んだわけだ。なにか原因があるなら、できるだけ早く対処してやりたい」
理玄はいった。
「俺たちにも見えない可能性はあるけど、いいの?」
助手席に座る朔馬はいった。
「いいよ。その場合は、何もなかったと同義だろうしな。念のため、読経はするけど」
「相性もあるからね。もし俺たちに見えなくても、ハロには見えるかも知れない」
「そういうこともあるのか。そういえば、君らのお姫様はどうしたんだ」
「昼寝してたから、起こさなかった」
朔馬はいった。
「来客があったらしいから、朝寝ができなかったんだろうね」
凪砂はいった。
「朝寝? それは、二度寝とは違うのか」
理玄は聞いた。
「ハロは毎朝走ってるんだよ。朔馬より早起きなんだろ? それで朝ご飯食べた後は、また寝ちゃうみたいだよ」
「夏休みは毎朝すごい速度で走ってるから、疲れるんだろうね」
朔馬はいった。短距離走くらいの速度で走っているのだろうと、理玄は想像した。
理玄が三人を雲岩寺のバイトとして雇ったのは、最近のことである。
三人に出会うまで、理玄は自分以外の見鬼に出会ったことがなかった。だからこそ、三人と知り合いになれたのは僥倖であると思った。
まだ十五才であれ、ネノシマから来た者であれ、バイトとして雇うことに迷いはなかった。きっと自分はそれほどまでに、同志みたいなものを欲していたのだろう。
「朝寝ができなかったから、昼寝してるってことか。来客ってのは、伊咲家にはよくあるのか」
理玄は聞いた。
「ほとんどないよ。今日は、イトコが遊びに来ただけ」
「双子の従兄弟は、もう伊咲屋で働いてるんだったな」
「遊びに来たのは、その従兄弟のお姉ちゃんだよ。お盆に帰ってこれないから、昨日から帰省してるんだ。俺も会いたかったな」
凪砂はいった。
双子の従兄弟夫婦が、伊咲屋で働いているのは知っていた。しかしその従兄弟に、姉がいるとは思っていなかった。
「その従姉妹のお姉ちゃんは今、家を出てるってことか」
「うん。大学から、ずっと一人暮らしだと思う」
つまりその従姉妹は、伊咲屋を継ぐ意志はないのだろう。
伊咲屋の娘が旅館を継がないとしても、不思議ではない。今はそういう時代ではない。
そうは思いつつも、本来は自分の娘に女将の職に就いて欲しかったのではないかと想像する。
時代が変われど、親とはそういうものであると理玄は多くの経験から知っていた。
◇
「地面、大丈夫か? 抱っこするか?」
公園の駐車場に降りると、理玄は狸丸に聞いた。
公園の駐車場はその周囲にも木々が生い茂っており、日陰が多い。そのせいか狸丸は「大丈夫そうだ」といった。
狸丸がぽてぽてと歩き始めたので、理玄たちはそれに続いた。
午後四時でも、日が傾く気配はまだない。しかし暑すぎるせいか、もしくはそういう時間帯でないのか、公園にはそれほど人はいなかった。
公園には夫人のいうように川が流れていた。しかしそれは、とても人工的な川であった。川底には丸い石が敷き詰められており、川の深さも理玄のふくらはぎほどもない。
この川であれば、四才児から目を離してしまっても仕方がないのかなとも思ってしまう。
「子どもが指したのは、たぶんこの木だ。ここは変な感じがする」
狸丸が指したのは川沿いにある一本の大きな木だった。そこに近づくと、たしかに妙な感じがした。
目を凝らすと、そこにはうっすら人影のようなものが見えた。
「鬼虚がいるかな」
朔馬はいった。
鬼虚とは、よくないものの総称だったはずである。
「この鬼虚、なんとなく人影に見えるかな」
凪砂はいった。
「俺には、うっすら人影が見える」
理玄はいった。
すると朔馬は「人間の、生き霊かな」といった。
「え?」
理玄も凪砂も、朔馬を見つめた。
「狸丸は、なにか見えるわけじゃないんだろ?」
朔馬は確認するように、狸丸に聞いた。
「変な感じがするだけだ!」
狸丸は快活に答えた。
そういえば生き霊の仕業と思われる現場に狸丸を連れていった際には「嫌な感じがする」ということはあるが、その姿が「見える」といったことはなかったように思う。
「たぶん人間に慣れている人ほど、この生き霊は見えやすいんだと思う」
朔馬はいった。
「そういうこともあるんだな」
理玄はいった。
「でもこの生き霊は、それほど害はないと思う」
朔馬がいうと、狸丸も「嫌な感じはしないな」と同意した。
「依頼主がいってたように、川赤子という妖怪は存在するんだ。でもほとんどが泣くだけだし、転ばせるも大人だけなんだ」
「つまり今回の件はただの事故で、この生き霊とも、川赤子とも無関係というわけか」
朔馬は「たぶんね」といった。
「でも、今朝ここに川赤子がいた場合、生き霊のせいでその作用は強く出たのかも知れない」
「子どもに川赤子の声が聞こえたのは、この生き霊の影響かも知れないってことか」
凪砂はいった。
「そんな気がする。害はなくても、存在するだけで影響はあるから」
それから朔馬は「どうする?」という感じで理玄をみた。
「今ここで対処するなら、この生き霊を散らすことくらいだけど」
「それなら、君らの手を煩わせるでもないな。生き霊なら、多少は慣れてる」
理玄はそういって、数珠を持った。
朔馬であれば、一瞬でこれを散らすことはできるはずである。
しかしバイトとして雇っているとはいえ、自分ができることさえも彼らに頼ってしまうことに慣れたくはなかった。
理玄が経を読み終える頃、人影の姿はなくなっていた。
安堵すると同時に、軽い疲労が襲ってきた。
じっとりとした夏の気配が、さらに湿気を帯びて理玄の肩に下りてきたようだった。
◇
その夜、なかなか寝付けなかった。
お祓いをおこなった日は、目が冴えてしまうことが多い。
理玄は幼い頃から、他者には見えない何かを見ていた。
それをひどく面倒に思っていた時期もある。しかしいつしか、自分の体質を受け入れた。受け入れたというか、ただ慣れた。
さらには正式に家業を継いでからは、この体質も役に立つことがあると思えるようになった。
もし自分が寺の子でなければ、僧侶になっていなければ、今より生きづらさを感じていただろうか。そんなことを考えども、僧侶にならなかった自分を上手く想像できなかった。
職業を選ぶ上で、育った環境の影響は大きい。それは他者も同じことであろうと思っている。
そう思った後で、ふと双子の従姉妹のことを思い出した。
有名老舗旅館の第一子。その娘が、家業を継がない理由はなにかあったのだろうか。家業を継ぐ以上にやりたいことがあったのだろうか。もしくは弟に家業を継がせるべく、身を引いたのだろうか。
伊咲屋の娘は、なぜ家業を継がなかったのか。
それをもう少しだけ考えたいようにも思った。もしくは、なぜ自分がそんなことが気になっているのか考えたかった。
しかしそんな思考も、やっと訪れた眠気によって緩やかに消えていった。
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