第六章【善人】美羽

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第六章【善人】美羽

 たしかに誰かが、こちらに頭を下げた。  波浪と別れて実家に戻っても、美羽はそのことを考えていた。  あれは見間違いだったのだろうか。  そんなことを考えながら、美羽は自らの昼食となるそうめんを茹でた。  両親は本日も伊咲屋に出勤しているので、実家には美羽一人である。  そうめんをすすっていると、ダイニングテーブルに置いた携帯端末が振動した。  画面には、彩樹の名があった。 「どうしたの?」  彩樹と連絡を取り合う上で、電話という手段はめずらしい。そのため美羽は開口一番にいった。 「よかった。出てくれて」  名刺入れをなくしたので、探しているのだと彩樹はいった。 昨日食事をした店にはすでに連絡を入れたが、それらしきものはないという回答だったらしい。そのため、美羽の車に名刺入れが落ちていないか確認して欲しいとのことだった。 「助手席にしか座ってないよね?」  美羽は彩樹と通話をしたまま、実家のガレージに向かった。 「うん。落ちてるとしたら、助手席」 「なかったら、花火した公園かな」  美羽がいうと、彩樹は「そうだった、公園にもいったね」と絶望した声を出した。 「花火した場所、覚えてる? 私、あんまり覚えてないんだけど」  やはりそれなりに酔っていたらしい。 「覚えてる。もし車になかったら、見てきてあげるよ」  彩樹は「えー、ありがたい」と大袈裟にいった。  しかし美羽が公園にいく必要はなくなった。  助手席のドアを開けると、それらしいものがすぐに見つかった。 「濃い青緑色の、革製の名刺入れ?」  彩樹は「それ。よかったぁ」と心からいった。  名刺が必要な機会が近々あるらしく、本日の勤務後に伊咲家に取りにいくと彩樹はいった。  しかし美羽は彩樹の職場近くまで、それを届けることを提案した。そして今日は予定もないから、と付け加えた。彩樹は少し迷った後で「お願いします」といった。 ◆  待ち合わせのカフェには、少し早めについた。  しかしそこにはすでに、彩樹の姿があった。 「ありがとう、本当に助かった」  お茶をするにはちょうどいい時間帯なので、店内はそれなりに混雑していた。 「いいよ。何時まで休憩なの? というか、今がお昼なの?」  彩樹の元には、それなりに大きいサンドイッチが二つ届いていた。 「五時まで休憩だから、少しゆっくりする。朝からなにも食べてないけど、一応お昼」  彩樹がどんな勤務形態なのかは分からないが、美羽は「お疲れさま」と心からいった。 「忘れないうちに渡しておくね」  美羽が名刺入れを渡すと、彩樹は再びお礼をいった。  それから彼女は大きなサンドイッチを、するすると胃に入れていった。  彩樹とは高校の三年間同じクラスであった。 当時は毎日一緒にお昼を食べていたが、今ではこんな風に食事をすることの方がめずらしい。そう思った後で、それは家族も同じことであると思い直した。  食事をする人が変わることが、生活が更新することなのかも知れない。サンドイッチを頬張る彩樹を見て、そんなことを思った。 「今朝、分家いってきた」 「へぇ。双子ちゃんは元気だった?」 「ハロしかいなかったけど、元気だったよ」 「弟くんと、居候くんはいなかったの?」  美羽は「凪砂と朔馬くんね」といった。 「二人は進学部だから、今日も学校だって」  美羽はホットコーヒーに口をつけた。 「進学部は夏休みも何もないんだったね。ハトコもそんなこといってた気がする」 「ハトコも進学部なの?」 「そうだよ。どうしても共学がいいから、かなり頑張って進学部に入ったみたい。でも馴染めないし、勉強にもついていけないし、最悪っていってた」  そういう話を聞くと、波浪は賢明な判断をしたのだろうと思う。中学での成績上位者が、高校で下位になることは決してめずらしくない。 「進学部なら、凪砂たちと同じクラスだったりするのかな」 「そうだね。クラス数も少ないし、ありえるね」 「知り合いの知り合いは、知り合いって感覚。久しぶりな気がする」 「田舎では日常だよ」  彩樹はいった。 「この年になっても、自分がまだ地元にいるとは思わなかったな。高校生の頃は、卒業したら必然的に一人暮らしになると思ってた」  彩樹は二年ほど浪人して、地元の医学部に進学した。そのため彼女は六年間、実家から大学に通っていた。 「彩樹がここの医学部に受かったって聞いた時は、なんか感動したよ。泣きはしなかったけど」  美羽がいうと、彩樹は短く笑った。 「二浪させてもらったから、ここの医学部に合格できて安心したよ。地元を出たい気持ちもあったけどね。その気持ちも吹き飛んだ」  彩樹は自分にそう言い聞かせているわけでもなく、本当にそう思っているようであった。そういう部分が、自分とは違って大人であると思う。  美羽自身は高校生の頃は、どうしても地元から出たかった。 ――知らない場所って、怖くないの?  いつか誠に、そんなことをいわれたように思う。  しかしそんなことをいっていた誠も、大学進学を機に地元を離れたのだった。 「マコツも、ここの医学部が第一志望だった気がするんだけど。あれ、マコツは落ちたんだっけ」 「ちがうよ、なんで覚えてないのよ」  彩樹は呆れたように笑った。 「マコツは推薦であっさり、地方の医学部に受かったんだよ。だから、そっちにいっただけ」 「そうだ、そうだった。医学部も推薦があるんだなって、その時思った気がする」 「通知表のなんだっけ、評定平均だっけ。それが、かなり高くないと無理らしいけどね」 「マコツはぼんやりしてるけど、そういうところは抜け目なかったからね」  それから彩樹は、同じ予備校に通っていた同級生の話を始めた。  こうして共通の友人の話をしていると、自分たちは高校生の時とそれほど変わっていないのではないかと錯覚する。  それでも自分たちは高校を卒業して十年以上、まったく違う価値観と生活の中で生きてきた。  しかし同じ教室で過ごした日々が、そのたった三年間が、今も自分たちを繋いでいる。当時の三年間は、今では考えられないほどに濃密なものだった。  あの頃を思い出すと、それなりに幸福で、それなりに息苦しかった。  誰かの保護下でしか生きられなかった頃に、自分と同じように誰かの保護下でしか生きられない友人が側にいた。 それが、どんなに心強かったか分からない。 ◆  美羽は本日も、車の通りが少ない道を帰路に選んだ。  車で海沿いを走っていると、歩道に見知った顔を見つけた。美羽は後続車がないことを確認し、車を停めて運転席の窓を開けた。  すると凪砂も波浪も、すぐにこちらに気づいてくれた。  波浪とは午前中に会っているが、凪砂とはそれなりに久しぶりである。再会を喜び合った後で、彼は朔馬を紹介してくれた。  噂には聞いていたが、彼は想像以上に端正な顔立ちをしていた。男子であると事前に聞いていなければ、女の子だと勘違いしたかも知れない。 「仲良くやってるとは聞いてたけど、こんな感じなのね。安心した」  落としたハンカチを取りにいった波浪と朔馬が、笑い合ってこちらに戻ってくる。それを見つめながら美羽はいった。 「そうだね。なんか最近、前より楽しいよ」  凪砂はいった。 ――最近は前より仲いい気がする  その言葉を受けて、波浪も似たようなことをいっていたことを思い出した。  高校生の頃に家族とどんな会話をしていたのか、今はもう覚えていない。  しかし家族だけの空間よりも、誠や、他の誰かがいた方が話しやすかったこともあったように思う。家族の中に第三者が加わることで、多少の遠慮が生まれる。そのことで居心地が良くなることもあるのだろう。それは家族と少し距離を置きたいと思っている時期であれば、尚更かも知れない。  しかしそれは、第三者が善人であることが大前提である。 「朔馬くんはいい子なのね」  凪砂は「うん」と、なんでもないようにいった。  笑いながらこちらに戻ってくる波浪と朔馬の後ろで、眩しいほどに海が光っている。  こんな風に光る海を見ていると、決まって思い出す光景がある。 「おばあちゃんとも、よく浜辺で遊んでたよね。あの光景は、今も時々思い出すよ」  おばあちゃんとは、誠と毅の祖母のことである。 「うん、遊んでたね」  凪砂はいった。  毅と双子は幼い頃から、彼女にとても懐いていた。そして四人はよく浜辺で遊んでいた。その姿は今も鮮明に思い出すことができる。  車に戻ってきた朔馬と波浪は、丁寧に服を払って「お願いします」と車に乗り込んだ。 「出掛けてきた帰りなの?」  車を走らせると、凪砂はいった。 「高校の友だちに会ってた。チョコを大量にくれた友だち」 「ドイツいってた人?」  波浪はいった。 正確には違うが、美羽は「そんな感じ」と答えた。 「その友だちのハトコも、進学部なんだって」  三人が「ハトコってなんだ?」という顔をしたので、イトコの子どもであると美羽は説明した。 「誰だろう。知ってる人かな」 「不登校気味っていってたけど、そういう子いる?」  彩樹がいうと、凪砂は「ああ」とすぐに合点したようだった。 「知り合いではないけど、隣のクラスいるね。スカートで登校する子だったかな」  彩樹のハトコで間違いなさそうである。  スカートで登校する時点で、女装という趣味は隠していないのだろう。しかしこれ以上言及することもないので、美羽は話題を変えることにした。  三人を分家で降ろすと、丁寧にお礼をいわれたのでなんだかいいことをしたような気持ちになった。  しかしその満たされた気持ちも、長くは続かなかった。  分家から実家へと曲がる道で、こちらに頭を下げる人影があった。美羽はなにも考えずに、呼応するように頭を下げた。  その後で、なんだか嫌な予感がした。  それは今朝みた何かと、同じ場所にいたからである。
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