第八章【働き盛り】美羽

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第八章【働き盛り】美羽

 三人を送り届けた分家からの帰り道、何者かに頭を下げられた。  その後から、妙な胸騒ぎが消えなかった。  夕飯を食べても、お風呂に入っても、何か黒いものが胸につかえているような、そんな感覚があった。  それはベッドに横になっても、消えることはなかった。  眠ってしまえば、きっと朝には忘れている。そうは思えども、なかなか眠気は来なかった。  嫌な予感をかき消そうと、美羽は無理に別のことを考えようとした。  そうすると、波浪と朔馬が同時にすっ転んだ場面が思い出された。それはあまりに面白かったので、美羽はベッドの中で再び小さく笑った。 ――おばあちゃんとも、よく浜辺で遊んでたよね ――あの光景は、今も時々思い出すよ  二人を見つめて、凪砂にいった言葉は本当だった。  きらきらした夕暮れの海を見ると、子どもたちと車椅子の女性が笑い合っている光景を思い出す。  子どもというのは双子と毅の三人である。そして車椅子の女性は、誠と毅の祖母である。  彼女が一度目の脳梗塞で倒れたのは、美羽が高校二年生の時であった。  倒れている彼女を発見したのは、まだ幼稚園児だった(たけし)である。毅は防犯ブザーを鳴らして、彼女の異変を周囲に知らせたのだった。その行動は、彼女が一命を取りとめる大きな要因になったらしい。  彼女は長く入院を強いられることはなかった。しかし体の一部に麻痺が残った。彼女は根気強いリハビリと、車椅子を必要とする生活になった。 そのため彼女の営む産婦人科医院は、しばし休診となった。その間、彼女は専門書や論文の執筆をしていたと聞いている。しかし麻痺のこともあり、部屋に引きこもる時間は次第に長くなっていった。  それでも孫の毅と双子が学校から帰ってくると、彼女は決まって外に出た。  四人が浜辺や、休診中の医院の駐車場で遊んでいる姿を何度も見かけた。そしてそれを見かける度に、美羽は彼女たちに声を掛けたものである。  皮肉なことであるが、彼女は脳梗塞を患った後の方が話しやすくなったように思う。美羽が成長したこともあるが、実際に彼女は以前よりも穏やかになったように思えていた。  美羽が幼かった頃は、彼女はまさに働き盛りであったといえる。  彼女はとてもしっかりした人で、そしてなかなかに口うるさい人でもあった。厳しい人ではなかったと思うが、幼い頃は彼女が少し怖かった。彼女になにかいわれる度に、叱られたような気持ちになったものである。  子どものうちは絶対に一人でトイレにいってはいけないとか、日が暮れたら一人で家から出てはいけないとか、どんなに明るくても絶対に防犯ブザーを持ち歩かなければならないとか、そんなことを何度も美羽たちにいって聞かせた。  のちに知った話であるが彼女の営む産婦人科医院は、犯罪などが起きた時の協力医療機関であったらしい。つまり彼女はそういう被害にあった者を、人より多く見てきたのである。だからこそ彼女は、美羽たちに何度も自衛の手段を伝えていたのだろう。  そのおかげでもあって、美羽は現在に至るまで犯罪に巻き込まれることなく過ごせている。 しかし彼女の言葉のありたがみを知ったのは、最近であるように思う。美羽にとって大人の言葉は、それほどまでに遠いものだった。  対して波浪たちは、彼女の言葉を常に真剣に聞いているように見えた。  それは彼女が子どもたちと同じ目線で話すようになったせいなのか、彼女が柔らかな口調になったせいなのかはわからない。 ただ、彼女の言葉に真剣に耳を傾ける幼い三人をみて、なんだか羨ましく思ったものである。素直に大人の言葉を聞ける性格を、環境を、羨ましく思った。 ◆  息苦しさで目が覚めた。 時計を見ると、一時間も眠っていなかった。  悪い夢をみていたわけではないが、鼓動は速くなっていた。さらには眠る前の妙な胸騒ぎも、美羽から消えてはいなかった。  再び眠ることは難しく思えたので、美羽は冷たい物を求めて冷蔵庫へと向かった。しかし冷蔵庫を開けてみても、自分を満たしてくれる何かがあるわけではなかった。  少し迷ったが、美羽は近くの自動販売機に向かうことにした。 散歩というには短い距離であるが、気分転換をしたいという欲は充分に満たされるように思った。  美羽は玄関に置きっぱなしの防犯ブザーを持って、夜の道を歩いた。  この年になっても、夜は怖いという感覚はしっかりある。  夜に出歩く人間や、夜行性の野生動物はもちろん怖い。しかし地元の夜はなによりも、闇が怖いのである。  街灯の届かない闇の奥に、未知の恐怖が潜んでいる。そんな非現実的なことを想像するほどには、地元の闇は暗くて深い。  無機質に道路を照らす街灯を辿っていくうちに、目的の自動販売機にたどり着いた。  街灯よりも白い光に包まれた自動販売機で炭酸飲料を買うと、想像より大きな音で飲み物が落ちてきた。それから美羽はその場で、炭酸飲料を口にした。冷たい飲み物が喉を通ると、なんだか少し気が晴れた。  地元にいた頃は、日が暮れてから徒歩の外出はあまりしたことがなかった。 誰かになにかを強く禁止されていたわけではない。それでも当時は、多くの制限を受けていたように感じる。 しかし自由を与えられたとしても、自分一人ではどこにいくこともできなかった。その事実を、不自由だと感じていただけなのかも知れない。  炭酸飲料を飲みながらぼんやりしていると、自動販売機の白い光がゆらりと揺れた。  そうかと思うと、その光はみるみるうちに人の形を成していった。  なんだろう。 なにかがいる。 しかし、これには目を合わせない方がいい。 本能的にそう思った。 そう思ったが、美羽はそれから目を逸らすことができなかった。 ただその場で佇んでいると、それと目が合った。 すると人影になったそれは、美羽に小さく頭を下げた。 「え?」  美羽は混乱しつつも、その人影に頭を下げた。  その後で、これはここに住んでいた頃の自分自身なのではないかと唐突に理解した。  あの頃の自分が、なにも読み取れない表情でこちらを見ている。そんな風に見えた。 それはひどく恐ろしいようにも思えたが、見て見ぬふりはできなかった。 どうしようもなく、その人影に魅入られていた。 人影はほんの少しずつ、こちらに近づいてきていた。 「美羽ちゃん!」 聞き慣れた声が鼓膜を揺らしたが、それは夢の中のように遠いものとして響いた。 自分の意志で、体を動かすことができなかった。  さらに人影が近づくと、それは静かにこちらへと手を伸ばした。  そしてそれが美羽に触れる瞬間、底知れぬ恐怖が胸に広がった。  その恐怖に目を閉じる寸前、美羽の視界は光に包まれた。
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