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第一章【花火】美羽
この海沿いの町では、あるはずのない島が時々見える。
その島はネノシマと呼ばれており、そこには妖怪や神様たちが多く住んでいるとされている。
ネノシマは、この土地で生まれ育った者にしか見えず、さらには大人になるにつれて見えなくなるといわれている。
きらきらと光る水面に、ないはずの島が見える。それはあまりにも当たり前に、そこにあった。
こんなにはっきり見えているのに、いずれ見えなくなるなんて想像もつかなかった。
しかし大学進学を機に地元を離れてからは、ネノシマを見る機会は極端に減っていた。
見えない今が正常なのか、見えていた以前が正常なのかは、判断がつかない。
それでもネノシマはこちらの見える、見えないとは無関係に、ただそこにあるのではないかと思っている。
◆
小さな火花が、暗闇にパチパチと弾け飛んでいる。
線香花火とはこんな風に弾けるものだったのかと、美羽は興味深くそれを見つめた。
「明日は、なにか予定あるの?」
彩樹は花火を見つめながら、美羽に聞いた。
「ないよ。もし予定があったら、これに付き合ってないよ」
二人で夕食に出掛けた帰り、花火があるから消化したいと彩樹は突然いった。
彩樹は夕食時に何杯かお酒を飲んでおり、酔っぱらいの戯言だろうとは思った。しかしそれは楽しい提案のようにも思った。帰宅するには早い時間であったので、美羽はその提案を受け入れた。運転をするのは当然のように美羽であるが、それでもいいと思った。
彩樹の自宅マンションに花火を取りにいった後で、二人は手持ち花火が許可されている公園に向かった。
そして現在に至るわけである。
「イトコの双子ちゃんを連れて、どこか遊びにいったりしないの? 今、何才だっけ」
「十五才。高校一年生」
「じゃあ、うちのハトコと同じ年だ。白桜高校だし、知り合いかもね」
「どうだろうね。ハトコって、なんだっけ。イトコの子ども?」
彩樹は花火を見つめたまま「そうそう」といった。
「四月にイトコの家族がこっちに引っ越してきたんだよね。ハトコは不登校気味で友だちもいないから、たまに遊んでくれって。だから、最近遊んでる」
「一回りも離れたハトコと遊ぶって、楽しいの? 小さい頃からの知り合いって感じでもないんでしょ」
「うん、全然会ってなかった。でも、それなりに楽しいよ。向こうは知らないけど」
「なにして遊ぶの」
「ハトコは女装が趣味だから、化粧品売り場とかそういう場所に連れていってる」
「それは楽しそうだけど」
美羽は正直にいった。
「そういえば分家にさ、凪砂の友だちが居候してるんだって」
分家というのは、美羽の叔母夫婦の家のことである。そして美羽の実家は、向こうには本家と呼ばれている。
「凪砂って、双子のお姉ちゃんだっけ、弟くんだっけ」
「弟。お姉ちゃんの方はハロ」
本当は波浪であるが、身内にもハロと呼ばれている。
「弟の友だちが住んでるってこと? ストレスというか、色々大丈夫なの?」
彩樹は終わった花火をバケツに入れた。
「私もそう思った。でもお母さんに聞いたら、仲良くやってるから心配ないってさ。ハンサムでかわいい子だし大丈夫だって」
美羽がいうと、彩樹は「ハンサムでかわいい……」と反芻した。
「顔がいいってことかな」
彩樹はいった。
「たぶんね。一緒に住む上で、顔の良し悪しは関係ないとは思うけど」
美羽の花火は次第に勢いが消えていき、白い煙だけになっていた。
「明日、予定がないなら様子見てくれば?」
「でもそれって、野次馬みたいなもんでしょ。鬱陶しいと思われたら嫌だな」
彩樹がバケツを差し出してくれたので、美羽は花火をそこに入れた。ジュッという音とともに、それは水に沈んでいった。
「なに、双子ちゃん反抗期なの? 大人が嫌いな時期?」
「それはないと思う。遼平とも、その奥さんとも仲いいみたいだし」
遼平は、美羽の二つ下の弟である。
「遼平くん、同級生と結婚したんだっけ」
彩樹は美羽に新しい花火を渡した。
美羽は「ありがとう」と、その花火を受けとった。
「同級生というか、柔道部の同期っていってた」
彩樹は「そうだった。前にも聞いたね」と、思い出したようにいった。
「で、なんだっけ。いつから分家に住んでるの、その居候くん」
「朔馬くんね。六月の頭からだったから、もう二ヶ月前かな。なにかあれば私の部屋は使っていいとはハロに伝えてあるけど。今のところ平気そう」
「イトコには過保護だねぇ。私は美羽の家に遊びにいったこともないのに」
彩樹は冷やかすように笑った。
「身内は別枠」
「それは、そうかも」
彩樹は噛みしめるようにいった。高校一年生のハトコが、彼女になんらかの影響を与えているのだろう。
「たぶんいまだに、友だちを家に上げたことはないかな」
美羽は花火に火をつけながらいった。
美羽の両親は地元では有名な、伊咲屋という老舗旅館を経営している。
伊咲屋は十三歳以下を宿泊禁止としている。つまり伊咲屋は家族旅行向けの施設ではなく、落ち着いた雰囲気を売りにしている旅館である。
伊咲屋は代々親族で経営しており、現在は美羽の母が女将を務めている。そして弟夫婦もすでに伊咲屋で働いている。将来は彼らが伊咲屋を継ぐはずである。
そして美羽の実家は、伊咲屋の敷地内に存在している。
敷地内といえど、旅館である建物とはそれなりに距離がある。
それでも幼い頃は「伊咲屋の正面玄関に近づいてはならない」といわれて育った。さらには中学生になるまでは、友だちを家に呼んではいけないともいわれていた。
美羽はその言い付けを、今も守り続けているのかも知れない。
「でも、マコツは例外だったかな」
美羽は思い出したようにいった。
火をつけた花火は、次第に黄色の火を放ち始めた。
マコツこと北川誠は、近所に住む幼なじみである。学年は美羽の一つ下で、遼平の一つ上である。そのため幼い頃は、よく三人で遊んでいたものである。
「あー、マコツ。懐かしい、元気?」
彩樹はいった。
彼女も誠も同じ医学部予備校に通っていたので、それなりに交流はあったらしい。
彩樹は二年ほど浪人しているので、誠と同じ授業を受けることも時々あったようである。
「連絡とってないけど、元気だと思う。なにかあれば、誰かから噂は聞くと思うし」
「たしかにね」
こういったところは田舎の面倒なところであり、便利なところでもある。
「マコツは今、実家に住んでるんだっけ」
「県内の病院に勤めてると思うけど、家にはいなかった気がする。実家好きだし、そのうち帰ってくると思うけど」
美羽は適当にいった。
「でもそれって高校生の頃の話でしょ。もう十年以上前の話だよ」
彩樹がそういった後で、二人で「え、怖いね」と口を揃えた。
「待って。この花火、予想外のところから火が出てきたんだけど」
彩樹は持った花火を、自分の体から遠ざけながらいった。
「本当だ。なにそれ」
「ちょっと、助けてよ」
「水掛ける?」
「それは、もったいないでしょ」
そんなことをしている間に、花火は消えてしまったので「なんなの」と笑い合った。
ただ花火をしているだけであったが、なんだかひたすらに楽しかった。
◇
「この橋で、肝試しをした大学生がいたらしいんだけどさ。なんか罰当たりなことしたらしくて、ひどい目にあったたしいよ」
花火を終えた帰りの車内で、彩樹はぽつりといった。
美羽の運転する車は、今まさにその橋を渡っているところであった。
「なにそれ。ここでどんな罰当たりなことするの」
美羽はいった。
「立ち小便でもしたんじゃない」
「それは最悪」
美羽は苦笑した。
「お祓いしてもらったら、解決したって話だけどね。全員で雲岩寺いったって」
雲岩寺。この辺では有名なお寺である。
「そんな大袈裟な感じだったの?」
「全員がそれぞれ、軽症を負う程度の呪いというか、祟りにはあったらしいよ」
今更酔いが回ってきたのか、美羽はどこかぼんやりとした感じでいった。おそらく眠いのだろう。
「その肝試しをした大学生たちとは、知り合いだったの?」
橋を渡り切ってから、美羽は聞いた。
「ううん。例のハトコから聞いただけ。学校にいってない時は、たまに大学の図書館にいってるから。そこの大学生に聞いたんだって」
「図書館で、高校生と大学生が知り合いになるの?」
「ネットで知り合った人が、たまたまそこの大学生だったらしいよ。同じく女装が趣味の人だって」
共通の趣味がある人ならば、ネットで知り合うことも多い。美羽は「なるほど」とだけいった。
「美羽、チョコレート好きだっけ」
彼女の自宅マンションが近づくと、彩樹は思い出したかのようにいった。
「わりと好き」
そう答えた後で、彩樹はチョコレートが嫌いだったか、食べられないのだったと思い出した。
「上司のお土産で大量にもらっちゃってさ。もらって欲しいんだけど、いい?」
「くれるならもらうけど。ハトコにあげてもいいんじゃないの?」
「ハトコもチョコ嫌いなんだよね。うちの家系、なぜかチョコ嫌いなの」
「じゃあ、いただきます」
「よかったら、イトコちゃんたちにも持っていって」
「そんなに大量にもらったの?」
「うん。上司のドイツ土産なんだけど、医局で余ったからって全部私に回ってきた」
彩樹はそういって、小さくアクビをした。
自宅マンションに着くと、彼女は「ちょっと待ってて」とふわふわした足取りで車から降りた。
彩樹は現在一人暮らしをしているが、実家との距離は車で二十分ほどである。実家から大学病院までも充分に通える距離であるが、勤務先に少しでも近い場所がよかったらしい。
美羽がぼんやりとしていると、ふと車のライトが揺れた。
何かが動いたようにも思えたので、美羽は視線を上げた。そこには、制服を着た女の子がいた。その特徴のない制服は、母校の白桜高校の制服であることはすぐに分かった。しかしこんな時間に高校生が一人でいるのは、どうにも妙に思われた。
なんとなく目が離せないでいると、彼女はこちらに向かって軽く頭を下げた。そのため美羽も、返事をするように頭を下げた。
もしかしたら知り合いだろうか。
もう一度その子を見つめようにも、その姿はもうどこにもなかった。
美羽が車内できょろきょろしていると、運転席の窓がコンコンと鳴った。
「おまたせ。どうかした?」
美羽が窓を開けると、彩樹は不思議そうにいった。
「ううん、なんでもない」
美羽はそういった後で、もしかしたら先ほどの子は女装をした彩樹のハトコだったのかも知れないと思った。
しかし「なんでもない」と会話を切ってしまった手前、それ以上言及することはやめておいた。なにより、戻ってきた彩樹はひどく眠そうだったので、早く解放してあげたかった。
「これ。多いけど、持っていって」
彩樹が渡してくれた紙袋は、窓を全開にしなければ受け取れない大きさだった。受けとった紙袋の中には、チョコレートの箱がぎっしりと入っていた。
彩樹と別れた後、美羽は車の通りが少ない道を選んで実家へと帰った。
深夜になると、この辺の信号機はほとんどが点滅になる。走りやすいからこそ速度は出さないようにと、母は毎度忠告してくれる。
実家に帰省している間、美羽は母の車を借りて外出している。母は年に数回しか帰省しない美羽のために、高い自動車保険に加入してくれているのである。
いつもは正月、五月の連休、そしてお盆の年三回ほど地元に帰省している。しかし今年はお盆に帰省することが難しそうなので、七月末という今の時期に帰ってきたのだった。
速度を出しているつもりはないが、想像よりも早く家に着きそうだった。
視線を上げると、遠くに伊咲屋の灯りが見える。
地元を出たことを後悔したことはないが、帰ってくると少しだけ後ろめたいような気持ちになる。その後ろめたさを強く感じるのは、こうして外から伊咲屋の放つ光を見つめている瞬間である。
自分だけがこの光から離れて、自由に生きている。それを誰に責められるでもないが、ふとした時にこれでよかったのだろうかと思う。
伊咲屋の灯りは、すでに失われた自分の居場所の象徴なのかも知れない。
それでもその灯りを見つめる度に、心から安堵するのもまた事実だった。
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