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《神さまから才能を授からなかったのだと知ったのは、いつだった?》
誰かにそう問われたら、小鳥ははっきりと答えられる。
それは5歳の時だ。
物心がついたころには、すでにピアノを弾いていて、同年代の子たちが出場するコンテストではいつも優勝していた。
周りは口々に、「この子は将来、プロのピアニストになるだろう」と言った。
小鳥自身もまた、この地球上に空より高いものはないのと同じように、そのことについて疑問を抱くことはなかった。ある意味では、こまっしゃくれた子供だったのは間違いない。それでも溢れ出る才能が、周りの不満の声をねじ伏せていた。
ところが、ある瞬間に小鳥に対する評価が一変する。
湿気が体にまとわりつく、夏の暑い日だった。
いつものようにピアノの教室に行ったら、突然、先生に「手の指を一杯に広げてみて」と言われたのだった。
《あぁ……》
鍵盤の上に手を広げて見せた時の大人たちから漏れたため息は、今でも小鳥の耳について離れない。
まるでお気に入りの洋服に、醜いシミがついてしまった時のようだった。
落胆と諦めと、微かな同情と、どこかいい気味だといった複雑な感情が入り混じった、なんとも表現のし難い吐息だった。
小鳥は、人よりも手が小さかったのである。
一般的に、ピアニストは指が長いほど有利とされている。天才と呼ばれるピアニストは、少なくとも1オクターブを超えるほどの指の長さがあると言われているのだ。
もしも1オクターブ半もあろうものなら、大騒ぎになるほどだ。
言い換えるのなら、手が小さいというのは、プロのピアニストを目指す者にとって致命的な欠陥だと言えた。
これが洋服についたシミならば、汚れたものはさっさと捨てて、新しいものを買えばいい。そうすれば、見るたびに憂鬱になる必要はないのである。
が、これが自分の手だとそうもいかない。
取り替えることも、廃棄することも叶わないのである。嫌でも自分の小さな手と付き合っていかなければならない。
たいていの場合、この時点でプロの道を諦めるものだ。
幼いころに持て囃されていた子ほど、挫折を味わうと立ち直れないことが多い。2度と音楽の世界に関わらないといったケースは珍しくはないのである。
だが、小鳥はこんなことではめげなかった。
年齢を重ねれば、手が大きくなる人はいくらでもいる。何より指が短くても、テクニックでカバーできる場合もあるのだ。
結局、小鳥の手は大きくならなかったが、寝る間も惜しんで練習した甲斐があって、誰もが一目おくほどのテクニックを身につけることができたし、現にコンテストに出ればそれなりに結果も残せていた。
(絶対に、プロのピアニストになるんだ!)
むしろ以前よりも燃えていたのだった。
どうしてそこまで情熱を燃やせるのかというと、単にピアノのが好きだったことと、負けん気の強い性格のせいでもあった。
だが、1番は父親の存在が大きかったのである。
小鳥の父親は、ローディーという楽器の管理をする裏方の仕事をしている。
重要な役割ではあるのだが、日本ではまだまだその地位は高くない。そのため小鳥の家は決して裕福とは言えなかった。
それでも父親は、決して安くはないピアノ教室の月謝を払い、可能な限り送り迎えもやってくれていた。
子供心にそんな父親の恩に報いるためには、プロのピアニストになるしかないと思っていたのだった。
ところが、神さまは実に意地の悪いことをするのだった。
小鳥に才能を授けなかっただけでなく、辛く険しい試練を与えたのである。
自宅でピアノの練習をしていたら、ストッパーが緩んでいたらしく、不意に蓋が閉まったのだった。
慌てて手を引いたが間に合わず、左手の小指を挟んでしまったのである。
骨折した上に、腱も傷ついていた。
数ヶ月のリハビリ生活の経て、骨は元通りになったが、小指は以前のように力が入らなくなってしまったのである。
手が小さい上に、小指の力が弱い。
ピアニストとしては、絶望的と言ってもいいだろう。
『ピアニストだけが、人生じゃないから』
慰めてくれる父親に、小鳥は泣いて謝った。
ただ、人生というのは何が起こるかわからないもので、再び小鳥の負けん気に火がつく出来事が起こるのである。
これまでお世話になった先生に、お礼とあいさつをするために訪れたピアノ教室でのことだ。
保護者たちの噂話を聞いてしまったのだった。
『ローディーのお父さまがいるのに、小鳥ちゃん、指を挟んだの?』
『プロのピアニストの夢を諦めさせるために、ワザとやったんじゃないかって噂よ』
『ああでもしないと、小鳥ちゃん、ピアノを辞めようとしなかったものね』
もちろんそんなことは信じなかった。それでも心の中では、ずっと引っかかるものがあった。
(生活が苦しいから、お父さんは私にピアノを辞めて欲しかった?)
高校の卒業を間近に控え、そろそろ進路を決めなければいけないというタイミングになり、小鳥はこれまで何度も頭の中に浮かんでは消し去ってきた疑念を、思い切って父親に投げかけてみた。
『ピアノの蓋のストッパーって、古くなってただけなんだよね?』
すると父親は驚いた表情をした後、困った顔をして、泣き顔になると『すまない』と頭を下げたのだった。
かつて父親もピアニストを目指していたため、小鳥の辛さは理解していた。だからこそ、このままピアノを続けさせてもいいものかと悩んでいたそうだ。
それを聞いた瞬間、小鳥にとって父親は恩人ではなく、負け組の象徴で、反骨心を奮い立たせる存在になっていた。
(娘にこんなことをするなんて!)
高校を卒業すると、すぐに家を出た。
1年間アルバイトを掛け持ちしてお金を稼くと、今から3年前の春に、この音大のピアノ科に入学したのだった。
小鳥は音大に入学する時、ある誓いを立てた。
(父親を見返す! 天才には絶対に負けない! どんな手を使ってもだ!)
それは執念とも呼べるような、小鳥を支えるモチベーションになっていたのである。
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