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「もしかしてあの子──」
小鳥が「ご両親と、はぐれちゃったのかな?」と続けようとしたら、隣にいた同級生の柏木修斗が端的に、それでいて的確に表現してくれた。
「迷子かな?」
そう言って肩からバイオリンを外すと、小首を傾ける。彼の茶色みがかった天然パーマの髪の毛がかすかに揺れた。
「もしかして講師の先生のお子さんかもしれないね」
そう言うと修斗は、音大の女子生徒たちが例外なく見惚れてしまう、なんとも言えない魅惑的な目を斜め上に持ち上げたのだった。
きっと修斗の頭の中では、外国人講師たちの顔が順番に浮かんでは消えて、を繰り返していることだろう。だが、思い当たる講師の顔はなかったらしい。
再び女の子の方へと向き直る。
「あの子のご両親は、今ごろ校内を探し回ってるかもしれないね」
言い終わるや否や、整った顔立ちが苦悶に歪んだ。
それでなくてもどこか儚げなのに、さらに憂い顔にしたものだから、見ているだけでかわいそうになってくる。これではどちらが迷子かわからないくらいだ。
小鳥は慌てて修斗の背中に手を置くと、母親のようになだめるのだった。
「大丈夫よ。ここの講師の誰かのお子さんなら、すぐにご両親は見つかるわ」
仕事場を見学させるために愛娘を連れて来たが、いつの間にかはぐれてしまった──きっとそんなところだろう。
小鳥は、内心ではため息をついた。
(まったく……手のかかる子だ)
これは女の子のことを言ったのではない。「困った子」なのは、修斗の方なのである。
他人の気持ちに寄り添うことができる──これは間違いなく修斗の長所だ。
演奏をする際に作曲家の意図や心情を汲み取り、演奏に活かすのは、言葉で言うほど容易ではない。どんなに前もって資料を読み込み、弾き込んでも難しい。それなのに修斗は、初めて聴いた曲の中に込められた心情やバックボーン、情景などを簡単に言い当ててしまうのである。
ただし、他人の気持ちに寄り添い過ぎてしまうあまり、当人以上に気持ちが沈み込んでしてしまうことがある。酷い時には、演奏に支障が出てしまうほどに、だ。
(発表会が近いのに、こんなことで調子を崩されたらたまったものじゃないわ)
小鳥は女の子の前まで行くと、目の高さが合うように腰をかがめた。167センチと女性にしてはやや身長が高いため、小さな女の子と視線を合わせるには、90度近く体を折り曲げなければならなかった。
「どうしたの? 迷子になっちゃったのかな──って、日本語はわからないか」
すると今まで色をなくしたように無表情だった女の子の顔が、一瞬にして電気を灯したかのように明るくなったのだった。
「ああっ!」
声の高さは500ヘルツほどか。女の子は高揚したように高い声を上げたのである。
驚いて体をのけぞらせていると、女の子はまるで小鳥のことなど眼中にないというように脇をすり抜け、教室の中に入って行ってしまう。
「あっ、ちょっと!」
止める間もなく女の子は教室の中央にあるピアノの前まで行く。横長の椅子に手を置くと、飛び乗るようにして座った。
そして女の子は淀みない仕草で鍵盤の上に指をのせた次の瞬間、小鳥は目を──いや、耳を奪われた。
軽快な調べが教室の中に響き渡る。もちろんここは音大の教室だ。壁も天井も床も、窓ガラスに至るまで聴く者の耳に最高の形で音が届くように設計されている。
ただし、女の子が弾くピアノの音は、それだけではなかった。
(これはたぶん……フレデリック・チェルシー作曲の「幻想曲神羅」だ)
小鳥があえて「たぶん」と注釈をつけた理由は、女の子が弾くメロディーは、これまでに聴いたことがない独創的なアレンジが加えられていたからだった。
もしもこれが楽譜通りに正しく弾けるかどうかを求められる試験なら、間違いなく失格になるだろう。
だが女の子が弾く「幻想曲神羅」は、一見すると作品の世界観を崩してしまいかねないほどの危うさを含みながら、新しい解釈を加えられていて、たまらなく心地良く、自然と足でリズムを取りたくなってしまうほどだったのだ。
「すごい……」
修斗の囁くようなその言葉は、決して誰かに聞かせるためのものではなかったのだろう。小鳥でなかったら、聞き逃したかもしれない。
無意識に出たといった感じの言葉だったのだ。
それだけに、心の底から出た偽らざる本心だったのだろう。
口元には、微かな笑みを浮かべ、目は女の子から片時も外れない。
やがて修斗は、じっとしていられないといった感じでバイオリンを構えていた。
小鳥は咄嗟に「何をしてるの⁉︎」と言っていた。
咎めるような口調になってしまったことを、怯えた修斗の表情を見て自覚し、同時に(失敗した)とも思った。
修斗はまるで叱られた仔犬のようにうなだれている。
「俺はただ、あの子とセッションしてみようかと思って……」
小鳥はできるだけ優しく語りかけた。
「駄目よ。あなたは特別なの。こんなところで才能をすり減らしてどうするの」
触れると壊れてしまうガラス細工を目の前にしているような気分だ。
「いい? あなたの良さを引き出せるのはこの私だけ。いつも言ってるでしょ?」
修斗はオヤツを我慢する子供のやうに、口惜しそうに女の子の方へと視線を向けた。が、すぐに「そうだね」と、納得したようにバイオリンをケースに片付けるのだった。
小鳥は安堵の息をつく。
修斗に対して、えらいね、とばかりに微笑みを向けた。その後、夢中でピアノを弾く女の子に視線を戻す。
打って変わり、小鳥は口惜しそうに下唇を噛み締めた。自然と右手で左手の薬指に触れていた。これは小鳥が苛立った時にする癖なのである。
(一体何者なのよ……この子は……)
体の奥底から、敵対心が湧き上がって来るのを感じていた。
(ああ、この子はきっと、私にとってのパンドラの箱になるのだろう……)
そして女の子が弾くピアノを聴きながら、強く決意するのだった。
(修斗に近づけちゃいけない。絶対にだ)
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