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 はっと目が覚めたのは、熱を発しようと体が震えたためだった。  寝ていたのかと、すっかり火の気の消えた跡を見やり、体が動かないことにギクリとした。そして腕にしっかりと抱えていたものを思い出した。マントに包まれた内側は二人分の体温で温まっていたが、外気に触れている表面はひんやりと冷えている。慌てて抱えていた少年に目を向け、桂樹はぎょっとした。  少年の目が、ぱっかりと開いていた。引き込まれるような鮮やかな緋色の瞳が、ぼんやりと桂樹を見ていた。にわかに狼狽え、この体勢に他意はないと言葉を探しかけ、桂樹は切れ長の群青の瞳をうっすらと眇めた。  そろりと手を伸ばし、少年の白磁の頬に触れる。白く滑らかな頬に、桂樹の健康的に焼けた手がよく映えた。硬い木の幹や葉を扱う桂樹の皮膚は硬く、少年の血管まで透かしそうなほど薄い肌は簡単に傷ついてしまいそうだった。  そろりと壊れ物を扱うように、指の背で頬を撫でる。  だが少年はピクリとも反応しなかった。緋色の瞳がただぼんやりと桂樹を見ている。いや、違う。彼は桂樹を見ているわけではなかった。ただ目を開けているだけだった。ぼんやりとした緋色の瞳は、焦点を失っている。  軽く頬を叩いてみるが反応はなく、桂樹は精悍さをみせる顔に困惑の表情を浮かべた。  世界中の粋を尽くして創られた、精巧で精緻な美しい人形を拾ったのかと錯覚すら覚えた。だが、少年は息付き温かい。生身であることは間違いない。  もしや木に食われかけると言う有り得ない体験に、心を閉ざしてしまったのだろうか。目を背けたい現実がある時、人はそれから逃れるように意識を逸らす。例え目の前にあったとしても、視界に入らないこともある。それほどの傷をこの少年が負っていても不思議でない。  そう思うとたまらなくて、桂樹は少年ときちんと相対した。 「俺は樹術師の桂樹・ノブリスだ。すまないが、君には東の森都ヴェルドジェーリュまで一緒に来てもらう。色々聞かなくてはいけないことがある」  相手に届いていることはないだろう。だがこれが最善であるように思われた。意識の有無に関わらず、彼を東の森都まで連れて行かなければならないのは事実だ。『森』の内で起こったことをそのままに捨て置いては、樹術師の意義にも関わる。これより数日、彼は見ず知らずの男に連れ回されることになるのだ。自身の素性を明らかにしておくことは、彼の意識がないとはいえ必要である。また、桂樹にとっても心身上安らかだ。 「君のことはなんと呼べばいいだろうか……」  切り替えが早いのは彼の長所だ。方向性さえ決まれば、迷うことはしない。彼を旅の友として連れ立って行くには、名前が必要不可欠だ。  ふむ、と考えるように目の前の美しい置物を見つめる。興味があるものを余すことなく目に入れるよう凝視するのは彼の癖だ。精悍だがそれ故強面にも見える桂樹の深い群青色の瞳に捉えられると、まるで射すくめられているようにも感じる。だが相対するのは反応のない美しい人形であり、自覚がない桂樹にそれを止めるつもりはない。  どれくらい美を楽しんだだろうか。桂樹はふと顔を上げた。 「ひぎり……」  確かそう言葉が落ちた。声音さえ残らないような音だった。それが何であるか、桂樹にはわからない。だが、彼を呼ぶに相応しい音であるように思えた。 「美しい緋色の眼をしていたしな。君のことは緋桐と呼ぼう。不服があるなら後でも構わない。名前を教えて欲しい」  まるで意識ある真っ当な人と会話するように、桂樹は少年に話しかけた。  人形のような少年、緋桐はそれに反応することはなかったが、桂樹は気にせずに腰を上げた。 「今日はここで休もう」  『森』に入ったのが昼過ぎだった。どれくらい『森』の中を探索したのかわからないが、緋桐を連れて戻った時には、陽は傾きかけていただろう。それからうとうとと眠ってしまえば、周辺はすっかり夜の帳の準備を始めるのも道理だ。  陽が湖に沈む様はひどく美しかっただろうと、見られなかったことを残念に思いながら、桂樹は天幕を用意する。  樹術師の大半の寝床は天幕だ。街から二、三日離れたところにある『森』を周るのに、それはどうしても不可欠なものだ。樹術師の多くは天幕の仕様に力を入れ、いかに日々を快適に眠るかを追求している。『森』の周辺に生き物は棲息しないため、少々大仰なことをしても、闇夜に襲われることもない。樹術師によっては、より部屋としての空間を作り上げることに熱意を燃やす者もいる。桂樹にそれほどの熱意はないが、快適に心地よく眠ることは、翌日の体調に気を使うことだ。過剰ではないが、配慮はしていた。  いつもの手順で手際よく準備をし、火を起こす。湯を沸かして持ち込んだ野菜や干し肉を刻んでスープを作り、街を出る前に買った腸詰めを焼いた。食欲を刺激する肉の焼ける匂いが漂い、腹の空き具合を知る。  ふと顔を上げ、ぼんやりとでもなく、ただ座しているだけの緋桐を見る。  緋色の瞳は相変わらず焦点を結ばずぼんやりとしているが、夜に溶けることのない銀糸の髪が存在を主張するように煌めいている。炎を受けて赤く色付く頬は白磁を思わせるように滑らかで、暗がりに茫洋と浮かぶ姿がひどく幻想的だった。  ただそこにあるだけで、純粋な美に視線を奪われずにはいられない。精巧で緻密、繊細にして優美な人形であると錯覚させるほどだ。  微動だにしない緋桐に向け、桂樹は出来立てのスープを差し出す。しかし自発的に動作をすることをしない彼は、椀を取ることもない。仕方なく、桂樹は一口すくって彼の薄く色付く唇に匙を運んだ。 「熱いぞ」  一言添えて匙を唇に触れさせると、緋桐の唇が開いた。こぼさないよう注意を払いながら匙を口内に入れると、目に毒なほど白く薄い喉元がかすかに嚥下した。  ゆっくりと時間をかけてスープを飲ませた後、桂樹はようやく自分の腹を満たすことが出来た。 (まるでただ美しいだけの人形だな……)  人形として作られたのであれば、これほど完成度の高いものもないだろう。だがどれだけ圧倒される美を誇っていようとも、ただ生きているだけの人形など魅力も価値もない。彼の価値は、その美しい緋色の瞳に光を宿してこそ発揮される。そんな日が来るといいと思いながら、桂樹は緋桐を天幕へと誘った。  なすがままの緋桐に何とも言えない気持ちを抱き、光を宿さない彼の瞳を閉じさせた。
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