黒の双弾

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「どうぞ。お昼ご飯だよ」 そう言って食事を盛った皿片手に甘い顔と声色で近寄ってくるこいつは、つい最近私達を支配し始めた男だった。 私達の何倍も大きな体躯。体毛の少ないつるりとした顔。独特の匂いを纏ったこの男は表面上、親切な人を装っている。 けれど私は騙されない。だってこの男は、私と弟をいつも檻に閉じ込めてしまうから。一日二回しか食事をくれないし、トイレが汚れてもすぐには掃除してくれない。ひどい男なのだ。 「おいしい?」 にこにこしながら尋ねてくるが、たとえ言葉を喋ることができても反応は返したくなかった。それぐらい、鬱憤がたまっていたからだ。 だからすぐには出された食事には口を付けず、男の様子を窺っていた。 しかし私と違って単純で懐っこい弟は、食事が出てきた瞬間にパッと明るい表情を見せ、すぐさまかぶりついていた。 「わーい、ごはんごはん!」 「ちょ……ちょっと! そんな簡単に食べちゃダメよ。何が入ってるかわからないでしょ!」 あわてて手を伸ばして口を塞ぐが、弟はあっけらかんとしながら口に含んだ食物を咀嚼し始める。 「今まであいつがくれたごはんに、変なものなんて入ってなかったよ。それに食べておかないと、いざって時に元気出ないでしょ」 本当に噛んでいるのかと思うほどもぐもぐごくんと飲み込むように食事を進めていく。そんな弟の姿を眺めていたら、細かいところまで気にしている自分のほうが間違っているような気がしてくるから不思議だった。 「もう、楽観的なんだから……」 逐一警戒して損はないと思っているが、弟の言うことも一理ある。 しっかり食べて体力をつけておかないと、たとえ檻から脱出できてもシミュレーション通りに動くことはできないからだ。 仕方ない、と覚悟を決めて、目の前に置かれた食事に口を付け始める。 弟は出されたものはなんでも食べるから、たとえおいしいと言っていても味の保証にはならない。だからおそるおそる食べてみたのだが、一口食べた瞬間、とろりと口の中に広がる旨味に一瞬我を忘れそうになった。 「……悔しいけど、おいしい」 「ね。いつもの固形物もだけど、これもおいしいよね」 満足げにばくばくと食べている弟の隣で、しぶしぶ不機嫌そうな顔で食べている。そんな自分さえも、檻の向こうにいる男は微笑ましいと言った表情で眺めてくる。 (解せないわ……) なにが、そんなに面白いのだろうか? この男に支配されるようになって、約一ヶ月。ずっと無条件に優しくしてくる男の意図が読めなくて警戒しているが、そういう懸念事項さえなければ自分だって弟のようにリラックスして暮らせるのにと残念に思う。 綺麗な水、おいしい食事、温かい寝床。乾きも飢えも気候の変化も気にせず過ごせる今の暮らし自体はいいのだけれど、私達が入れられているこの檻はやっぱり狭すぎるのだ。 ここから出たい。自由が欲しい。男の存在を気にすることなく、そこらじゅうを駆け回りたい。 そんな願いを抱いてみても、外から声がかけられるとすぐに現実へと引き戻されてしまう。 「可愛いねぇ。ごはん中だけど、ちょっとだけ撫でてもいいかな?」 「……」 デレデレとだらしない響きの猫撫で声を上げながら、手を伸ばしてくる。その手は、食事に夢中になっている弟へと向けられていた。 こんな状況でなければ、今の生活を素直に受け入れられていただろう。でも、土台無理な話だった。 だってこいつは、私達に時々、とても嫌なことを強いてくるのだ。 体が沈みそうなほど深い水に入れられたかと思えば、嫌だともがいても体のあちこちを撫で回してくる。特にトイレの後、お尻のあたりをぐりぐりされる時が一番屈辱的だった。 今思い出してみても、腹が立つ。弟はおいしい食事に意識が向いていて気にしていないようだけれど、私のほうは可愛い弟に触れるなという思いでいっぱいになっていた。 (やっぱり、私が守らなきゃ) こんな危機管理能力皆無の弟を、男の手が届くところに置いておくのは忍びない。 そう思い、自分と弟の皿をぐいぐいと檻の奥へ追いやり、できるだけ男の視線がわからないように背中を向けて食事を再開した。 すると男は少し寂しそうにあぁ、とつぶやき、しょんぼりしながら檻の掃除を始めた。 私達の排泄物を片付け、檻の外を箒で掃いたり水を取り替えたりする。落ち込んでいるわりにはてきぱきとした動作で掃除をしていて、そこまでくると、男への苛立ちも少しは緩和される。 なぜなら、今の男の動きは、見覚えのあるルーティンに違いなかったからだ。 「そろそろ食事は終わりよ。準備なさい」 「うん?」 「この檻を脱出するの。外に出たいでしょ?」 そのルーティンで、男はわずかながら檻の扉を開く。ほんの少しの隙ではあるが、外へ出られるチャンスには違いなかった。 「出たいけど……大丈夫なの?」 いつものほほんとしている弟だが、外へ出るぞと耳打ちした途端、弱気な一面を見せる。 体格は自分より一回り大きいはずだが、背中を丸めて自信なさげに震えている姿は、年相応に幼く感じられた。 そんな弟の顔にちょいと触れ、大きくこくりと頷いて背中を押してあげる。 「大丈夫。扉が開いたら私が先に飛び出すから、あいつが驚いてる隙にあんたも出なさい」 「……うん。わかった!」 食事をしている時と同じようにきらきらした瞳を向けて、にこりと微笑む。 のんびり屋で時々鈍臭い弟だけれど、置いていくなんて絶対にできない。姉弟揃って外に出なければ、私がそのあとやりたいこともできなくなってしまう。 だから、連れていく。生まれてずっと一緒だった可愛い弟と、外で心置きなく、自由を満喫するのだ。 「じゃあ、いくわよ。3、2、1……」 弟に視線を送り、カウントダウンを行う。 檻の奥にいるからと明らかに油断している飼い主は、私達が狙いを定めていることに全く気付いていない。 そして、次の瞬間ーー 「今よ!」 がちゃ、と音を立てて檻の扉が開かれ、私達姉弟はその隙間目がけてまっしぐらに走り出した。 「あっ!?」 まず自分が檻を抜け、あわてている男の背中に頭突きをかます。 男が怯んでいる間に弟もするりと扉の隙間を抜けると、一瞬目配せして、各々違うところへと身を隠していった。 高い棚の上や、狭いソファーの下。男の手がそうそう届かないであろう場所へ逃げ込むと突然の脱走に驚いていた男が振り返り、うう、と弱々しい唸り声を上げる。 「お、怒ってる……? ごめんね、あんまり外に出してあげられなくて」 「……」 「リモートワークでもできれば、ずっと外に出したりご飯もこまめに出してあげられるんだけど……」 私と弟を交互に見つめたあと、男は肩を落としながらひょいとなにやら棒を取り出して掲げてきた。 どんなご機嫌取りも、私は通用しない。大したものでもないだろうと思いながら男の様子を見ていたけれど、棒の先にひらりと軽やかに舞う羽根が取り付けられているのが見えた途端、状況は一変した。 「新しいおもちゃ、いらないかな。ねずみバージョンもあるよ」 正直、しまったと思った。 あれはどうしたって、私達が惹かれてしまうものだったからだ。 (あぁ、そんなに揺さぶらないで……) そんな罠には釣られないぞと気を強く持とうとしても、目にするとつい顔ごと自然にその標的へ向いてしまう。 高い棚の上に登った弟も、うずうずした様子でその舞い踊る羽根を目で追いかけている。 冷静で理性的。そんな自己評価に違わず淡々と生きてきたけれど、一度知ってしまったあれの楽しさは、忘れることができない。 (もう、だめ……!) 男の操る棒の先、羽根に反応して自然とふりふりお尻が揺れる。 直後、制止しようとする心とは裏腹に、本能的と言えるほど勝手に足が動いて、隠れていた場所から一斉に飛び出してしまう。 「にゃー!」 「にゃーん!」 そうして私達は今日も二つの黒い弾丸となり、檻の外にある広い世界を存分に駆け巡ったのだった。 了
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