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「この間紹介していただいたヴァベル、とても楽しめました」
ヴァベル——ヴァーチャルノベル。ファンタジストの幻想した物語を具現化してくれる仮想化技術。
登場人物や風景は個々人の心象により異なるので、そこに描かれる情景は千差万別。だから自分だけが思い描いた理想の世界を表現してくれる。
「ソフィア・ソコロワ作の『アルルの時報船』のことですね。あなたにはどんなビジョンが映ったでしょう」
「自分が子供の頃に帰ったような気分でした。少女アルルはいつも、汽笛を鳴らして時を知らせる船が沖合を通過するのを眺めている。しかし、ある日からその音は聞こえなくなり、その時報船を見つけるためにアルルはひとり船出をする。私はその少女自身になりきっていました」
「一歩も外に出ることができなかったアルルにとって、時報船は何を意味していたのか、それを知る旅が始まりますね」
「船出をしてから色々な冒険がありましたが、時報船は見つけることができませんでした。 ……あの物語にはまだ続きがあるのでしょう?」
「ええ、その最新刊も到着したはずです。ご案内いたしましょうか?」
「それは楽しみですね。しかし残念なことに今日は日曜日。明日からまた忙しい日常に戻らなくてはいけないので、今日はここまでにしておきます」
「それではまたのお越しをお待ちしております」
カエデさんはさらりと返事を返してくれたが、私は彼女と別れるのが心惜しく、勇気を出してもう一言を添えた。
「あのカエデさん……もしよろしければ、現実でも一度お話しさせていただけませんか?」
一瞬驚いた表情をしたカエデさんだが、眉を落として寂しげな笑顔を見せた。
「そう言っていただけるのは嬉しいのですが、プライベートでお会いすることは禁止されております。それに……現実の私はとてもつまらない人間ですよ」
「ああ、そうですよね。すみません、余計なことを言いました」
「いえ、またここにはいらっしゃいますか?」
「はい、ヴァベルの続きを読みたいですから。それに、カエデさんとお話しできるのも楽しみなんです」
「私もここでなら喜んでお相手いたします。ああ、そうだ。まもなく第七書庫が公開になります。あなたにもきっと気に入っていただけると思いますよ」
「第七書庫……? それは一体どんなものでしょうね」
「まだ秘密です。開示時期が来たらお知らせしますので、楽しみに待っていてください」
「それではカエデさん、また週末に」
彼女に軽く手を振るとスーツの内ポケットから単行本を取り出し、間に挟まったしおりを引き抜いた。
——アウト・オブ・ザ・ヴァベル
カエデさんの姿が闇の中に萎んでいった。
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