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一人暮らし
「いただきます」
静まり返ったリビングで、俺は大きく声を出して食べ始めた。
黙々と食べる音だけが小気味よく響いた。新鮮な野菜と炊き立てのご飯をゆっくり味わう。
箸で野菜を摘まみながら、今朝から妻がいないことに改めて気づいた。孤独感を消すことはできないが、こういう生活も悪くないと自分に言い聞かせる。野菜を口の中に放り込んだ。
腰が痛くなるといつも年齢のことを考えてしまう。俺はもう五十三才になる、間違っても若者にはならない年齢だ。目尻の皺を触りながら一人で「老けたな」と笑う。
家族で仲良く食卓を囲んでいた日々が懐かしかった。妻が俺の食べ方や言葉遣いを指摘して、一人息子の蓮が「またか」と呆れる。
そんなごく平凡な日常がもう戻ってこないことを想像すると、深い悲しみを感じる。
左肩から左手の甲まで右手で優しく撫でる。同じように、右側も行う。手のぬくもりで、心の氷塊が溶けてゆく。俺にとって苦手な「孤独」と少しは友達になれたような気がした。
野菜の甘さが俺の現実の苦さを浮き彫りにさせる。
「寂しい」
頭の中にある、この言葉を消すことはできなかった。
玄関の方から、バタバタと足音が聞こえたかと思うと、扉が勢いよく開いて妻の声が聞こえた。
「ただいま」
妻は俺より若くて四十八歳だが、俺と違って、声も容姿も昔と同じに見える。
「おかえり、京子さん」
俺は直前まで寂しがっていたことを悟られぬように答えた。左頬に鳥肌が立っていた。
妻は重たそうなショルダーバッグをリビングに置くと、ずかずかと目の前にやってきた。孤軍奮闘していた俺の心を、一振りの斧で粉砕する破壊神のような剣幕が、俺を『恐怖』という檻に閉じ込めた。
「京子さんって何? それと、この食事は何なの? キャベツしかないじゃない、銀二さん?」
「京子はあなたの名前です。そして、これは野菜炒めです」
俺はよく言い返したと自分を誇らしく思った。銀二さんと久しぶりに名前を呼ばれて、舞い上がるほど嬉しかった。
妻は呆れて右手の甲を額に当て、憐れむような眼をした。
「確かに私は京子です。でも、これまで『あなた』や『母さん』と呼ばれていました。それがたった数日で、結婚する前の言い方に、なぜ変わったのか説明を求めます」
最後の言い方で、これは何かの裁判なのだろうかと思った。俺が作った野菜炒めを指さしながら続けた。
「これは野菜炒めではなく、『キャベツだけ炒め』です」
妻は憤慨していたが、俺の心は満ち足りていた。結婚前の名前で呼び合い、キャベツを食べることができたのだから。
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