オルグレンの魔女

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オルグレンの魔女

  【序】  誰かの嘆きが聞こえる。  慟哭は血を吐くような悲痛に満ちて、灰色の空に谺していた。荒れ果てた大地に這うのは怨嗟、凍えるような寒さの中で目に飛び込んだ白銀。  世界はその日、壊れてしまったのだ。  曾て、世界には魔術というものが存在していた。それは神の力の枝葉であり、人々が編む叡智であり、世界そのものであった。そう、信じられていた。  しかし、その日は突然訪れる。始めに気づいたのは、魔術を操る者たちだった。突如として彼らは一斉に魔術を失い、その息吹を感じることが出来なくなったのだ。混乱は瞬く間に広がり、けれど彼らは、まだ事の重大さには気づいていなかった。  事態が深刻であると発覚したのは、魔術を基礎として国家を形成していた者たちが、調査に乗り出してからだった。  彼らが懇意にしていた小さき者たちが、その慎ましい集落の中で、ただの一人も残らず死滅していたのだ。  皆、一様に外傷は見られず、突然事切れた風情で、累々と倒れ臥していたのだという。その有り様に、研究者たちは何か、とんでもないことが起きつつあるのだと悟り始めていたようだ。  慌てて上層部に報告されたそれは、直ちに各地へ共有されたという。そうして世界規模で確認され、集まった情報に依れば、死滅した種には共通点がみられた。  彼らは一様に魔術の源であり、自然界に空気と同等に存在していたはずの、魔素と呼ばれるモノを糧として生きていたのだ。  この時点で漸く、世界から魔素が枯渇したのだと、認識が共有されるに至る。その所為で世界から、永遠に魔術が消え去ったのだということも。  生き残ったのは、魔素以外の糧を持つ者たちだけとなった。  けれど、その原因について究明できた者は皆無だった。そもそも、魔素についても解明されていることは少なく、彼らが興味を持ち承知していたのは、結果として現われる魔術の効果のみだったのだ。  操れる者は限られるものの、この世界に住まう者にとっては、当たり前にそこにあるものでしかなく、こんなにも呆気なく消えてなくなるとは、夢にも思っていなかったのである。だから、その源となるものが消え失せて始めて、その所為で齎される不利益について思考が向いたのだった。  そして間もなく、各地で更なる混乱が巻き起こる。魔術を操ることで上位種たり得た者たちとの力関係が逆転し、粗野で確かな叡智を持たぬ種が蜂起したのだ。  世界はあの日、壊れてしまった。  失われたものを取り返す術はなく、血で血を洗う縄張り争いは止まる所を知らない。放逐された集落は増え、次の冬を越す為の実りが望めず困苦に喘ぐ人々。力なき者は蹂躙されるしかなく、世界に嘆きが轟いた。  その最中、一つの噂話が持ち上がる。魔素を失ったはずのこの世界で、何故か強大な術を操る魔術士が現れたのだ、と。  彼は各地の乱へ姿を見せ、人々を統制して回ったという。間もなく、彼が降りた地には勝利があると噂が流れ、その登場を熱望された。  彼が肩入れする判断基準は不明。ヒト種であるからと優遇されることもなく、中には無慈悲に滅ぼされた集落もあったとされる。そうして破壊され尽くした世界が、曲がり形にも秩序を取り戻した頃、彼は人知れず姿を消した。  彼について、残される文献は少ない。名も伝わらず、種族すらも不明。あの日から、彼ただ一人を示す固有名詞となった『魔術士』とだけ、記されていることが殆どだ。  けれど、吟遊詩人の歌にのみ、残されることがある。  戦乱の中、赤々と大地を蹂躙する炎に翻る髪は、その火勢にも負けぬような赤。思慮深く伏せられた眼は憂いを帯びて、暗く沈んだ緑色。  畏れをもって、我等はその名を伝えねばならない。これは世界への警告。驕る人々への戒め。世に永遠の繁栄はなく、呆気無く崩れ去る一夜城に他ならない。それを忘れれば、再びかの人は顕われるだろう。  彼は神の投じた一石。冷徹無比の執行者。我等は忘れてはならない。曾て犯した愚かしい日々を。神の降された火が、世界を蹂躙したあの夜を。  かの名は救い人。神に愛された者。誰よりも尊大で強く、けれど何よりも弱き者を助けて回った。世界の礎を築き直した人。  世界唯一の魔術士オズ。  彼の活躍の全ては、吟遊詩人たちの昔語りでのみ受け継がれている。今となっては、それが真実なのか、何者かの創作であったのかすら判らないとされる。けれどあの日、確かに世界は一度壊れて、人々は立ち上がるための新たな叡智を求めたのだ。あの大戦は、その切掛けを促した出来事に相違ない。  あの混迷の時代から人々が再び立ち上がり、新たな技術を模索し始めて、そろそろ千年が過ぎようとしている。世界は、産業革命の時代にあった。
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