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第12話
Junction ― 1
灯里先生が入院してから、あっという間に半日が経った。関谷先生の申し出に即答すると、すぐにスタッフさんが来て、先生の病室に俺のベッドも用意され、荷物も運び込まれた。
夕食の時間以外は、俺はずっと先生の手を握り締めて、先生の白い顔を見ながら、早く意識が戻ってくれる事だけを祈った。
病室のドアをノックする音が聴こえて、関谷先生が「回診の時間です。と言っても、本條さんとコイツが最後ですけどね」と言いながら、病室に入って来た。
「本條さん、少しは休んで下さいね」と言った。
「解ってます。でも、今日だけは見逃して下さい」
「見逃してあげたいけどね・・・あ、夕食は食べたんだね。でも休むのも大切ですよ。本條さんも患者さんなんだから、って・・・コイツの事お願いしたのは俺なのに、なんか矛盾してるよね」そう言って、力なく笑う関谷先生の顔に、いつもの明るさはなかった。
「先生、疲れてるんじゃないですか?先生もちゃんと休んだ方がいいですよ」
「本條さんて、ちゃんと周りを見てるよね。まぁ確かに、疲れてないと言ったら嘘になるかな。でも、コイツの為に出来る事って、このくらいしかないからさ」
俺は(やっぱり関谷先生にとっても、トラウマなんだろうな。きっと、灯里先生が幸せにならないと、関谷先生も幸せになれないんじゃないかな・・・)と、何となくそう思いながら、灯里先生の生気のない顔を見詰めていた。
「そういえば、灯里先生はどうして倒れた・・・んですか?今は外されてますけど、運ばれて暫くは酸素マスクしてましたよね?過呼吸ですか?」
俺はずっと気になっていた事を質問してみた。けどすぐに(あ、こういうのって本人や身内にしか話せないんだった)と気付いて、質問を取り消そうとした。だけど、それより早く関谷先生が口を開いた。
「俺が把握してるのは、俺が電話をした時からの事だけなんだよね。コイツが休みなのは知ってたけど、急ぎの案件が出来たから電話を掛けた。その通話中に、コイツの様子がおかしいと思った。すぐに過呼吸を起こしてるって気付いて、出先まで迎えに行った。けど着いた時にはもう、その場に倒れ込んでいて、既に意識がなかった。息も脈も乱れてはいたけど、過呼吸は治まってた。けど念の為、持って行った携帯用の簡易式酸素ボンベを使って、そのまま車で此処に連れて来たんだ」
過呼吸を起こした事自体は恐らく、重要な事ではないのだと思った。俺は専門家じゃないから、詳しい事は解らないけど、そんな感じがした。
だって、関谷先生が灯里先生の異変に気付いて、迎えに行ったのだとしたら、それはもう、ただの過呼吸ってだけでは片付けられないのではないだろうか?
(酸素ボンベまで用意して迎えに行った訳だし・・・実際、意識も失っていた訳だから・・・)
「意識が失くなる程ショックな事か、トラウマに繋がるような何かがあったって・・・事ですよね?」
俺は無意識に、思った事をそのまま口に出してしまっていた。関谷先生は何かを考え込むような、思い出すような顔をして話を始めた。
「まぁ、そうだね。普通に考えたら、意識を失う程の過呼吸やパニックは、それだけの強い出来事か、トラウマ絡みじゃないとならない。現にコイツの場合、普段はそこまでの発作は起こさない。いや、この数年は軽い発作すら、殆ど起こさなくなってるって聴いてたしね」
(なのに突然、それは起きた。しかも灯里先生が、意識を失くなる程の出来事ってなんだろう?)
「何はともあれ、本人が目を覚まさない事には、原因は解らないな」
「そうですよね・・・」と俺が呟いた時、灯里先生の手がピクっと動いた。そして「ん”~・・・」と、うなされていた。
俺は先生の手を優しく握って、心の中で(先生、大丈夫ですよ)と語り掛けた。それでも時折、苦しそうに顔を顰めたり、苦しそうに息をしている。
(先生の夢の中に入れたら、先生を助けられるのに)と、便利道具を出してくれる某アニメを思い出しながら、子供みたいな事を想像した。そこでふと浮かんだ素朴な疑問を、関谷先生に聞いてみた。
「意識がなくても、夢って見るんですか?」
「そうみたいだよ。意識がないと言っても、普通に寝ているようなものだしね。無意識の感覚に似てるのかな・・・?まぁそこまでいくと、もう脳科学の分野だから、詳しくは解らないけどね」
「あぁ、確かに寝ている時って意識がないって感じかも。しかも夢って、意識して見れるものじゃないですよね。意識する事で楽しい夢が見れるなら、誰だって見てるだろうし・・・でもそんな話聴いた事ないしな」
(夢で灯里先生が出て来てくれるなら、いくらでも寝てられる気がするな)とまたしても、馬鹿で不謹慎な想像をしてしまった。
「夢を見る理由には色々な事や、原因が考えられるからね。特に悪い夢だったり、それを気にして寝れないとか、寝たくないと思う人もいるね。そうすると、そこは俺達の分野になる。思考と感情は別物だって言うけど、実は切っても切り離せない関係なんだよね」
その時、灯里先生が再び「ゔぅ〜」と、呻くようにうなされていた。そして、その閉じた目からは、一筋の涙が流れた。
俺は空いてる方の手で、その涙をタオルで拭きながら「先生、大丈夫だよ」と、小さな声で語り掛けた。
その時、一方的に握っていた手を握り返された気がした。本当に一瞬だったから、気の所為かも知れないけど、気持ちが伝わった気がして嬉しかった。でも、先生が目を開ける事はなかった。
「俺が・・・」と、言おうか言うまいか悩んでいたら、関谷先生が「続けていいですよ」と言ってくれた。
「俺が灯里先生に甘えて、気を引きたくて我儘言ったり、恋愛感情で好きって言ったのは、思いっ切り地雷でしたよね・・・」
「どうかな~地雷って大袈裟なもんじゃなくて、またかって気持ちの方が大きかったんじゃないかな?そういうの、本條さんが初めてじゃないし・・・寧ろそういう事は、プライベートの方が多いいと思うよ」
先生は腕を組みながら考え込むように言った。その話の中で、気になった事があった。
「それって、俺の気持ちも「またか」って思われてたってことですよね?」
「ん~それはどうかな。仮にそう思ってたとしても、本條さんには、興味の方が強かったと思うんだよね」
「それってただの好奇心ですよね?」
「まぁ、言い換えるとね。でもコイツの場合、決して悪い意味ではないよ」
灯里先生が仕事熱心なのは知ってる。だから悪い意味での、好奇心じゃないのも解ってる。だけどそこまで・・・そういう意味で、意識されてなかったというのが、割りと地味にショックだった。
(そう簡単に上手くいくなんて、思ってはなかったけど・・・)
「流石に自信なくしそうです・・・」
「自信持っていいと思うよ。というか、俺的には脈アリな感じがするんだよね」
そう言った先生の笑顔を、何だか久し振りに見た気がした。それ程までに、今日という日が大変だったという事だ。
にも関わらず、先生の白衣のポケットから、バイブ音が鳴り出した。先生はポケットから院内用携帯を取り出すと、思い出したかのように言った。
「そうだ回診の報告しないと。本條さん、今日の当直は俺です。何かあったらすぐに、ナースコールして下さいね」
「解りました」と、俺は答えた。
先生は踵を返して、病室のドアに手を伸ばしてふと立ち止まると、振り返って「もう一度言いますけど、本條さんも少しは休んで下さいね」と言った。
「大丈夫、眠くなったら寝ますから」そう答えると、先生は笑顔で手をヒラヒラさせて、病室を後にした。
関谷先生が居なくなった病室で、俺は灯里先生の手を握り締めたまま、再びその寝顔を見詰めた。
「先生、早く目を開けて下さい・・・」と、思わず呟いた。静まり返った病室に、モニター音と自分の声が静かに響き渡る。
(一人で病室に居るより静かに感じる・・・)これが、俗に言う孤独感ってやつなのかも知れない。子供の時から必ずと言っていい程、常に誰かが傍に居た俺には理解し難かった。けど、この感覚は(孤独感って何となく、こんな感じかも知れない)と、思わずにはいられなかった。
先生はきっとずっと、こんな気持ちを抱いて生きて来たのかも知れない。関谷先生やその家族が一緒に居て傍に居ても、拭いきれない、常に付き纏う孤独感と寂しさ。
そしてそれを、ずっと押し殺してきた・・・(先生だって、感情を抑え付けてるじゃないですか)そう、先生に言いたかった。
(仕事中ならいざ知らず・・・って、プライベートの時の事は何も知らないけど。でも多分、先生の事だから、プライベートでも本当の・・・心の一番柔らかい部分は隠してたんじゃないかな)
その時ふと、先生が俺に対してよく言っていた「無意識に・・・」という言葉を思い出した。無理に抑え付けていた訳じゃないと思うけど、気付いたら無意識に押し殺していた感情はあるのかも知れない。それが何なのかは、自分でも解らないけど。
(それなら先生は、意識的に抑え付けてた・・・?誰にもその本心を見せず、言わずに・・・ただひたすら、感情を押し殺して、抑え付けてたのかな?)
社会に出れば、否応なくそういう対応を求められるのは、芸能界だって同じだ。本音と建前の使い分け、嘘も方便、長い物には巻かれろ等、社会に出れば色々ある。愛想笑いだってそうだ。
俺は子供の頃からずっと、それが普通だと思っていたし、特に苦にもならなかったから、そういう風に意識した事はなかった。けど(先生は違うんだよな・・・)と思った。
(先生の選択は、まさに荊の道ってやつ?)そう思った時、関谷先生が言っていた「どうしたら人を愛せるのか、どうしたら人から愛されるのか」という言葉が、頭の中を過ぎった。
(嫌い、怖い・・・だけど愛したい、愛されたい。関谷先生の言う通り矛盾してる。でも確かに、人間って矛盾してるんだよな・・・)
かくいう俺も、入院してカウンセリングを受けるようになって、灯里先生と話をするうちに、自分でも気付かなかった、知らなかった一面がある事に驚いた。
気を引きたいからってだけで、甘えて我儘を言ったりした。そういった行動は冷静に考えると、好きな人を困らせるだけだ。一歩間違えたらドン引きされて、嫌われるだけだろうと思った。
(好きな子程、泣かせたいみたいな感じ・・・えっ、俺の愛情表現って小学生レベル?!いや、今時の小学生でもそんな奴いないだろう。せいぜい、マンガに出てくるかこないかだよな〜)
そう思った途端、本気で恥ずかしくなってきた。そうはいっても、どうしたらいいのか全く解らない。他にも、スマートな方法があったんじゃないかとすら思えてきた。けど、恋愛経験がない俺には他に方法が見付からない。
(ん?ちょっと待てよ・・・恋愛下手な先生と、恋愛経験なしの俺。これがもし仮に、先生と俺が恋人になったとして、上手くいくのか?)
俺は先生の手を握り直し、その寝顔を見詰めて(そう・・・やっぱりただの友人じゃ嫌だな。けど、それ以前に、医者と俳優じゃ難しいよな、男同士だし・・・)と思った。
(いやいや・・・そんな事より、今は先生の意識が早くに戻る事を考えなきゃダメじゃん。って言っても、どうしたら先生起きてくれるんだろ)
段々、自分でも何を考えるべきなのか解らなくなってきて、思わず自分の欲求だけを考える方向に進んでしまった。
だからといって、俺は専門家でもなければ、先生の意識に入り込める便利道具を持っている訳でもない。どうしたらいいかなんて全く解らない。
関谷先生は「脳に異常も見当たらないから、殆ど寝ているようなもんだね。コイツの場合、特に持病がある訳じゃないから、容態の急変は心配しなくて大丈夫だよ」と言っていた。
(寝ているだけ・・・なのに、なかなか目を覚まそうとしないのは、何か原因があると思うんだけどな。目を覚ましたくないって何だろ?凄くいい夢見てるとか?いや、さっきうなされてた・・・)
俺は(ん〜やっぱり何かあったからこそ、起きようとしないんだろうな)と思うと同時に、関谷先生が付け加えるように言っていた事が気になった。
「記憶喪失って程でもないけど・・・もしかしたら、倒れる前の記憶が、曖昧になってるかも知れない」
それを聴いて、真っ先に(もしかして俺の事も覚えてないかも知れない?)と思ったけど、もしこうなった原因が俺にあるなら、それでもいいと思った。
(でも・・・覚えていて欲しい・・・)
ナースセンターで回診の報告をしていると、内線が鳴って近くに居た看護師が出た。そして、俺の方を向いて「関谷先生、外線です」と言った。
俺は「誰?」と聞くと「野崎さんて方です」と言うので、ナースステーションを出ながら「スタッフルームで話すよ」と行って、スタッフルームに向かった。
歩きながら(本條さんの退院の件について・・・なんだろうな)とは思った。けど、灯里を抜きにして話を進めるのもどうかと思ってる。それは、院長にも兄貴にも話をして納得してくれた。
(けど、業界の人ってそう簡単に納得してくれないだろうな)と、思ったのも事実だ。
電話に出ると「お忙しいところ恐縮です。青葉くんの退院の件はどうなりましたか?」と案の定だった。
「すみません、担当医師の元宮が急病で倒れまして、本條さんの退院についてはまだ、話し合いが済んでないんです」
「関谷先生も担当ですよね?」と、突っ込んでくる。
「そうです。だけど、カウンセリングも含めて、元宮が中心になって本條さんのケアをしていたので、元宮の意見も聞かないとならないんです。それに本條さん自身、目に見えて良くなったのは最近です。その事は元宮も気にしていました」
「確か・・・青葉くんの場合、本人が希望すれば退院は出来ますよね?」
確かに可能だ。余程の重度患者でもない限り、本人の意思があればいつだって、入退院は可能だ。まぁ、売れっ子俳優の本條青葉が、いつまで経ってもメディアに出ないのも何かオカシイと、思われかねないのだろう。
「そうです、本條さんが希望すれば可能です。ただ先程も言った通り、元宮の意見も聴かないとなりません。本條さんの体調やメンタルに関して、表面的な部分のみでの判断は出来かねます。医師としては手放しで送り出せないです。なので退院するとなっても、条件付きになると思います。それだと、お仕事に影響するのではないかと思います」
「条件ですか?退院後のケアなら、体調管理も含め、こちらも万全の体制を整える準備は出来ています」と、鼻息荒く野崎さんは言う。
「あの・・・因みに、その条件って何ですか?」
「健康管理、薬の服用、定期的な通院とカウンセリングです」
「健康管理と薬の服用に関しては、承知していましたので、その準備もいつでも出来るようにしていましたけど・・・そうですか。定期的な通院やカウンセリングは、継続しなければならないんですね。解りました。もう一度、上司と話してみます。青葉くんにも、明日またメールで聞いてみます」そう言って、野崎さんは電話を切った。
俺は(どうしたもんかね~、本條さんは何て答えるかな)と思った。あんなにも灯里にご執心だからな。でも、彼だって仕事には早く戻りたいだろう。
(後は灯里か・・・恐らく、パニックや過呼吸の原因は本條さんだろうな)と、何となくは思うけど、それがなんの・・・どんな感情から来てるのか解らないから、こっちも何とも言えない。
(全く・・・早く起きろよ。言い合いする相手がいないと、つまんないだろう)
誰かの泣き声が聴こえる。静かにベッドから抜け出て、ドアを開けて階下の様子を窺うと、キッチンの方から聴こえてきた。耳を澄ませてようく聴くと、嗚咽混じりの泣き声と、鼻を啜る音がする。
(お母さんが泣いてるんだ)と、すぐに解った。これが恐らく、子供の頃の一番古い記憶だった気がする。
忘れたくても忘れられないのは、この日が・・・今じゃその顔すら思い出せない、父親が家を出て行った日だったから。そしてこの日から、母さんと俺の人生が狂い出したから。
母さんが泣いているのを見たのは、後にも先にもこの日だけだった。もしかしたら、俺の知らない所で、人知れず泣いていたのかも知れない。
それでも懸命に、明るく振る舞う母さんに、俺は父親が出て行った理由を聞くことも、泣いていた事を告げる事もなく黙っていた。
母さんは生活を維持する為に働き、どんなに疲れていても、俺の前では努めて笑顔だったと思う。ハッキリ覚えてないのは、この頃の記憶が曖昧だからだ。
俺は子供ながらに、あまり我儘を言ったり、必要以上に甘えてはいけないと思っていた。その事は、なんとなく覚えてる。
母さんが入院していた時もそう・・・寂しいと思っても、それを口に出したり、態度に出してはいけないと思っていた。関谷の家の皆が心配して、困らせるような事はしたくなかった。
関谷の両親も兄さんも、関谷自身もあまり触れないようにしていたのも気付いてた。それこそ、俺の事も家族の一員として扱ってくれていた。
忘れたくても忘れられない事がもう一つある・・・母さんが病院の屋上から飛び降りた日。
あの日は確か学校の授業で、家族について作文だか何だかを、書かなくてはならなかった。時間内に書き終わらなかった俺は、翌日までの宿題にされた。
いつもの帰り道、いつもと同じく、関谷と歩いている時だった。不意に、無性に寂しくなってつい「お母さんに会いたい」と堪え切れず、思わず泣きながら呟いてしまった。
そして関谷が提案した事を、深く考える事もなく受け入れ、母さんが入院している病院へと行った。関谷に手を引かれ、敷地内の人目に付きにくい所を選んで歩いて行った。
途中まで行った時、女の人の叫び声が聴こえて上を向いた。一目で母さんだと解った。そして、何をしようとしているのか、何故だかすぐに解った。
「お母さんやめて」と叫んだ気がする。その瞬間、母さんと目が合った気もする。けどやっぱり記憶が曖昧で、本当に叫んだのかも、目が合ったのかも、ハッキリと覚えていない。
その後どうなったのかも覚えていない。気付いたら病院の病室のベッドの上で、目が覚めた。関谷の母さんが、泣きながら「良かった、良かった」と、俺を抱きしめながら、何度も繰り返し言った。
後から聴いた話だと、パニック発作と過呼吸を起こして、酸欠になって意識を失ったとの事だった。意識が戻っても、暫くの間、俺は入院を余儀なくされた。
入院中は色んな検査をさせられた。これより前の記憶が曖昧なのは、母親が目の前で飛び降り自殺をした事によるショックが、大きかった為だと高校生の時に言われた。
何となくそんな気はしていたから、特に気にはしていなかった。それに、そういう経験がなくても、幼少期の記憶が曖昧になる事はよくある。
その事に対しては、あまり気にもならなかったが、成人した今でも・・・いつまで経っても気になる事があった。
あの時、入院していたあの頃は、何かにつけて「どうして?」という気持ちで、いっぱいになった。その問に答えてくれる人は居ないのに、ひたすら頭の中が「どうして?」という疑問で支配された。
忘れたいハズの過去なのに、今でも忘れられないのは、恨みとか憎しみからじゃない。その疑問が常に、頭の片隅にあるからだ。
医者になったのは、俺のように心が壊れてしまった人を、救いたいとか助けたいという、立派な理由なんかじゃない。単に「どうして?」という疑問を、ただ解消したかったからだ。
でもやっぱり周りが心配したように、大学時代はフラッシュバックで時折パニックを起こしたり、過呼吸を繰り返した。それでも、知りたかった・・・疑問を解消したかった。その気持ちだけが俺の支えだった。
医師免許を取得して現場に出る頃には、パニックも過呼吸も、少しづつコントロール出来るようになっていった。
それと、疑問を解消するには俺もそういう経験をした方が早いかと思ったりもした。だが、俺のように同性愛者だと、相手に困る事が多い。気付いたらその手の店に、頻繁に足を運ぶようになった。
恋人と呼べる相手も何人か出来たが、その度に何かが違う気がした。どうしても、踏み込めないし踏み込んで欲しくないと思ってしまう。一時期この感情が単なる、人間不信なのかも知れないとも思った事があった。
確かに「どうして?」という気持ちの大半は「どうして俺を一人にしたの?」だったり「俺よりも父さんの方が・・・」という気持ちもあった。
だからと言って、それが人間不信に繋がるかと聞かれると、何とも言えなくなる。俺を取り巻く人間関係に、それに該当する人間はいない。なので、そう思ってしまうのは、恋愛絡みに於いてだけだと思う。
それでもストレスや、性的な欲求は溜まる。結局、後腐れのない身体だけの関係、一晩限りの相手で済ませる事になった。
関谷は「それじゃあいつまで経っても、欲しい物は手に入らないぞ」と、事ある毎に言った。俺は「それなら最初から、求めなきゃいい」と反発した。
そう・・・本当に欲しい物は、いつだって指の隙間から、砂や水のように零れ落ちていく。それなら最初から求めなければいいだけだ。そうすれば、傷付く事も失う事も恐れる事もない。
だからあの日、彼の顔を見た瞬間に「深入りしてはいけない」と、頭の中で警告音と共に直感した俺は、すぐに素っ気ない態度で接した。
なのに彼はそんなのお構いなしだった。気付くといつの間にかに、コチラのテリトリーに入っているか、
否応なく彼のペースに引き摺り込まれていた。今まであまりなかった事だった。
彼のあの目も、あの素の姿も恐らく周りは気付いていない。でも間違いなく、あれが彼の本来の姿だ。そう、まるで野生動物のような・・・(あぁ、彼が押し殺して抑えていたのは本能だったのか)と思った。
(あれ・・・彼って誰の事・・・?)
顔も朧気でハッキリと思い出せない。なのに、声は思い出せる・・・「灯里先生」いつも笑顔で、そう呼んでいた気がする。なのにちゃんと思い出せない。
(思い出せない・・・とても大切な人だった気がするのに・・・彼って誰・・・)
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