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散々な昼休みだったけど、願いが通じたのか、五時を過ぎても水沢君は屋上に現れなかった。見事に待ちぼうけを食わされた優愛ちゃんは、中身の入っていないスクールバッグを地面に叩きつけて罵声を響かせた。
「最悪! 水沢の奴、全然来ないじゃん!」
「優愛、口が悪いよー」と、新奈ちゃん。
「うっさい! 明日、あいつに何か奢らせなきゃ。約束破った罰。ね~、凜々花!」
「優愛ちゃん、そんなに水沢君に会いたいんだ? 実はタイプだったの?」
「は?」
腹立ち紛れに煽ってみたら、優愛ちゃんは顔を引きつらせて絶句した。いつもの、緊張感を伴う変な空気が漂う。もうどうにでもなれ、と思ったけど、私の背後から新奈ちゃんが顔を出して楽しそうに笑った。
「え~! 優愛ったら、そうだったの~?」
「んなわけないじゃん! あんなチビ全然タイプじゃないし! 何なの? 人のこと馬鹿にして、ほんと最悪! 麻耶、行こ!」
困惑している麻耶ちゃんの腕を強引に引っ張って、優愛ちゃんは出て行ってしまった。途端に屋上は静かになり、しばらくして、無言でスマホをチェックしていた新奈ちゃんが気怠げに呟いた。
「うげ~。今日って、『らぶレス』の配信日じゃん。最悪」
「え、ハマってるんじゃないの?」
「アレ、つまんなくない? 倍速視聴する時間すら惜しいくらいなんだけど」
「それは、まぁ……。ていうか、倍速視聴してるんだ……」
呆気にとられている私を見て、新奈ちゃんは悪戯っぽくニッと笑った。
「実は麻耶もだよ。凜々花は等倍で観てるんだ? 『つまんない』って思いながら」
「うん……。バカみたいだね」
「別に良いんじゃない? でも、たまには今日みたいに優愛をからかって憂さ晴らししてよ。普段やられっぱなしなんだから、そのくらいしてくれた方がこっちも気が楽」
「え。あ、そういうの、しても良いんだ?」
「ムカついたなら当然でしょ。自分の気持ちを最優先。嫌な空気になっても知るかって感じ。優愛に対してもウチらに対しても、さ」
「でも、それで全部がダメになったら?」
「私なら割り切るよ。息の詰まる場所に長く居たくないし。そういうもんじゃない?」
彼が校門に着いたから、と言い残して、新奈ちゃんは軽やかに去っていった。
私は出入り口を見つめたまま動けなかった。いつも変な空気になるのが怖くて、上手く立ち回ることばかり考えていた。でも、それじゃダメだったんだ。考えなきゃいけないのは、もっと別のこと。
周辺に誰もいないのを確認して、サナギのお墓の前で手を合わせた。知らないことばかりだ。サナギと寄生蜂のことも菌類のことも、みんなのこと、水沢君のことも……。
「ちゃんと、向き合わなきゃだよね」
顔を上げて呟く。目の前を大きなアゲハチョウが横切り、ゆったりと羽を揺らしながらツツジの蜜を吸い始めた。
三日後、私は借りていた本と二人分のお茶を手に屋上へあがった。水沢君はいつものジャージ姿で一人、花壇の世話をしていた。
「本、ありがと。すっごく面白かった」
「ゾンビが来た」
作業の手を止めて、水沢君は真顔で言った。私は彼に本とペットボトルを差し出して、
「もうゾンビじゃないよ。あの時は本当にごめんね」
「別に気にしてないけど……。ありがと」
水沢君はその場に腰を下ろしてペットボトルの蓋を開けた。私は花壇の縁についた土を払ってそこに座る。
「先週のアレ、この本を参考にしたでしょ」
「うん。でも、ちょっと強引だったね」
オフィオコルディセプス・ユニラテラリスに寄生された蟻は、操られるがまま菌の生存に適した環境へ移動させられて絶命する。私は、自分が操られていることを水沢君に伝えたかった。
「僕を呼び出して何するつもりだったの?」
「知らない方がいいと思う。今は平和だし」
優愛ちゃんがガチ恋していた若手俳優の電撃結婚報告のおかげで、彼女のこちらへの関心は完全に消え去った。
「平和かな? うちのクラスの一部の人達が、橘さんのことを『おもしれー女』って呼んでるんだけど」
「へ~、意外。もっと酷いのだと思ってた」
「じゃあ、想定内ってわけ?」と、水沢君は深い溜息を吐き出した。「なんでそこまで……。僕が橘さんの秘密を知ってるから?」
「違うよ。……これからもここに来たかったから、かな」
「いつでも来たらいいじゃん」
「『水沢君がいる』ここに来たかったの! 誰に何て呼ばれたって、ここに来られなくなるよりマシだもん」
「そこまでする価値、あるのかな」
俯いて水沢君は呟いた。
「私にとってはあるよ。水沢君、呆れないで私と普通に喋ってくれるし」
「だって、橘さんは普通だし」
「そういうとこ。だからね、私、水沢君の手伝いをしたいなって思ってるの」
「手伝い? 園芸の?」
「本当の夢を叶えるための手伝い。私にはまだ行きたい所なんて無いけど、水沢君にはあるんでしょ? なのに、親の期待に応えて行きたくない場所に行っちゃうの?」
「…………」
「時間がどんどん過ぎてって、気付いたら空っぽのサナギになってた、なんて嫌だよ」
長い沈黙。向き合うって決めたくせに、踏み込みすぎたかも、と早くも弱気になる。でも、おもむろに口を開いた水沢君の声は、意外にも落ち着いていて優しいものだった。
「本当は、樹木医になりたいんだ」
「ジュモクイ?」
「簡単に言うと、木のお医者さん。でも、父親から『木が枯れたら植え直せばいいだけだろ』って言われてさ。これ以上話しても無駄だって思って、その後は何も」
「無駄、かなぁ」
「なに?」水沢君の顔が途端に険しくなる。
「何も知らないんだよ。植え直せば解決する問題じゃないってことがわかれば、理解してくれるかも」
話しながら、スマホで『樹木医 就職』を検索する。ふむ。造園業、植栽管理業……。あれ? 国や地方公共団体もあるの?
「就職先に地方公共団体があるんだね。うちの父親、県庁職員だから訊けば何か教えてくれるかも。具体的な情報とか資料をいっぱい見せてさ、おうちの人に説明してみるって、どうかな?」
「資料を持って説明……って、なんかプレゼンみたいだね」
「そう! それだよ、プレゼン!」
水沢君は無言のまま、未だかつて無いほど嫌そうに顔面を歪めた。
「なに、その顔。プレゼンだと思えば、気持ち的にやりやすいんじゃない?」
「質疑応答でバチバチしそうだけど」
「いいじゃん、それで。説明不足のとこがあったら、『ご指摘ありがとうございます! また調べてきます!』ってさ」
「何回やるつもりなんだよ……」
「理解してもらえるまで、何度も。同じ気持ちじゃない人に自分の夢を叶えさせるのがどんなに大変か、知ってもらうの」
「…………」
「なに?」
「橘さんって、天然って言われてるんじゃなかったの? さっきから結構戦略的だよね」
「空気が読めない天然だよ。でも、これが私の進化の結果だから、それを否定して悩むのは違うなぁって。もう空気は追いかけないよ。それより、目の前にいる人をちゃんと見ようって決めたの」
「知ってる? 捉え方によっては退化も進化って言えるんだって」
「ひどーい」
「でも……、そっか」と返したきり、水沢君は黙り込んだ。けれど、園芸作業を再開してしばらく経った頃、ポツリと呟くように言った。
「僕も、僕の価値のために少しだけうるさくなってみようかな」
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