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2両目の彼女
いのうえそら
高校へ通う電車の、僕の定位置は2両目の後ろの方。
僕の、というより、彼女の定位置。
僕が1年生のときに見かけて、すぐに一目惚れした。
栗毛色の長い髪に大きなメガネ。いつも本を読んでいる。
どんな本を読んでいるのか、近くで見てみようとしたけど、心臓のバクバク鳴る音が聞こえてしまいそうで、近寄れなかった。
遠くで見ているだけで、心がほっこりするような彼女。
横目で見つめていることを気付かれないように、読んでる本を高めに持ったり、考えるふりして、顔を上げたり。
2両目の前の方にいる彼女の姿を見る一瞬が、毎朝の楽しみだった。
高校3年になって、僕は受験生になった。
放課後は、学校近くにある市立中央図書館へ。
勉強の合間にいろんな本が読めるから、本好きの僕にとって、図書館はワンダーランド。
勉強で疲れたら、書棚まで歩き、「1章だけ」と決めて本を読んでた。
夏休みのあの日。
数学の勉強が一段落して、ちょっと本を読もうと、書棚で本を選んでた。
作家・山内淳の小説が並んでるところで、『海の向こう』を読もうと手を伸ばしたら、隣に『神無月の夜』が並んでた。
『神無月』は人気で、いつも貸出中。
僕も読みたいけど、いま1章目を読んでも、2章目以降がいつ読めるかわからない。
『海』に手をかけたけど、「やっぱり『神無月』を少しだけでも読もう」と手を引っ込め、『神無月』に目を移すと、「でも、結局全部読んじゃって、勉強ができなくなっちゃうかも。こないだもそうだったから、一章ルールは絶対に守るって誓ったばかり。大学に入ってから読めばいいんだから」と、『海』を取りかけた。
「でも、やっぱり『神無月』が気になる」と、迷っていると、後ろから「うふふ」と小さな笑い声が聞こえた。
振り返ると、2両目の彼女がいた。
「あ、笑ってしまって、ごめんなさい。でも、もう決めるかな、と思ったら、また手を引っ込めて。つい、楽しくなって」
僕は、驚きすぎて、言葉も返せずに、口を開けたまま、彼女を見つめていた。
「ごめんなさい。気を悪くさせてしまったら、謝ります」
「あ、いえ、そうじゃなくて、あの、その」
「うふふ」彼女はまた天使のように、ほほえんだ。
僕もうれしくなって、「あはは」と笑った。
近くにいた人が、「コホン」と咳払い。
彼女が僕に小さな声で「怒られちゃいましたね」と、笑顔でささやいた。
僕は状況をうまく飲み込めずに、「あの、お読みになるんだったら、どうぞ」と小さな声で言った。
「大丈夫です。でも、そんなに迷ってるんだったら、2冊とも借りたら?」
「えっと、その、僕は受験生で」と、1章ルールを説明した。
「そんなに本が好きなの?」
「うん、とっても」
「山内淳さんばかり?」
「山内も大好きだけど、あまりジャンルは決めずにいろいろ読んでる」
「そうなんだ。山内淳さんだったら、『雨上がりの空に』もおすすめだよ」
「あ、まだ読んだことない。ありがとう。今度、読んでみる」
「読んだら、感想を聞かせて。聞いてみたい」
夢のようだった。彼女が僕に笑顔で話してくれている。そして、また話ができる。
幸せな気持ちでいっぱいで、彼女の笑顔をながめていると、彼女は「じゃ、また図書館で」と言って、出口の方に向かって行った。
僕はすぐに『雨上がりの空に』を探した。
図書館の司書のお兄さんに聞くと、「いま、すべて貸出中だね。今日が貸出期限のものがあるから、そろそろ1冊戻ってくるかも」。
僕は、その本が戻ってきたらすぐに借りたい、と伝え、席に向かい、勉強を続けた。
閉館間際に、司書のお兄さんのところに行って、『雨上がりの空に』が戻っているか、聞くと、お兄さんは笑顔で「戻ったよ。よかったね」と言って、すぐに僕への貸出手続きを取ってくれた。
その晩、一気に『雨上がり』を読み上げた。
一章で終わることはできなかった。
早く読んで、明日、彼女に感想を言いたい。
名前も聞いて、できれば連絡先も。
一緒に2両目で通学して、ときどき図書館で隣同士で勉強も。
考えると、わくわく、ドキドキして、本の中身に集中できなかった。
日付けが変わったところで、やっと読み終え、ベッドの中で、明日、彼女に話す内容を考えた。
もう、わくわくが止まらない。
どうしよう。好きって、告白しちゃおうかな。
でも、それはさすがにまだ早い。嫌われる確率が80%はある。だったら、だめだ。
でも、毎朝電車で話がしたい。つきあってもないのに毎朝話しかけると、それも嫌われちゃいそう。
でも、でも、でも。。。
「彼女もきっと受験生なんだからね」、と、つい声を出して、自分で自分を注意した。
彼女には絶対に迷惑をかけないようにしよう。ちゃんと、お互いに受験勉強をきちんとやるようにしよう。
そう固く誓って、布団の中で目を閉じた。
結局、ほとんど寝付けないまま朝を迎え、いつもの時刻より少し早く家を出た。
電車が来るのが待ち遠しい。
2両目の後ろの方。いつもの場所で、電車を待った。
前の方にいる彼女の姿を見たら、走って移動するつもりで、アキレス腱ものばした。
いつもの電車の2本前。
彼女は乗ってない。
当然だよね。彼女はいつも同じ電車だから。
いつもの電車の1本前。
さっきより真剣に目で探したけど、乗ってない。
いよいよだ。
いよいよ、彼女に会える。
最初の言葉も決めている。
「『雨上がり』良かったよ。教えてくれて、ありがとう」だ。
流れをみて、「君も読んだの?君の感想を教えて。あ、そうだ。名前もついでに教えて」と続ける。うまくいきますように!
そして、次の電車が来る、というアナウンスが流れ、いよいよ電車が見えた。
心臓の音が、後ろの人にも聞こえてるんじゃないか、と思うくらいに高鳴ってる。
正面を見せていた電車が、僕の横に滑り込んでくる。
1両目、前の扉のあたり。彼女はいない。
後ろの方。こっちもいない。
いよいよだ。
2両目、前の方。
あれ、あれ。いない。どこだ。
わからない。
電車が、僕の前で停まった。
後ろに並んでる人が、一歩前に進む。
どうしよう。彼女の姿が見えない。
中で探すか、次を待つか。
後ろからのプレッシャーを感じて、僕は列を離れ、電車沿いに前の扉の方に進みながら、乗っている人を一人ひとり確認する。
やっぱり、いない。
次を待とう。
どうしたんだろう。
次の電車は15分後。
僕の足だと、到着駅から学校まで走れば遅刻はしないけど、彼女は大丈夫かな。
彼女も、夜、眠れなかったのかな。
そんなはずないか。僕のこと、毎朝、同じ電車に乗ってるって、知らなさそうだったし。
深呼吸して、2両目の前の方で電車を待つ列に並んだ。
すぐに彼女に会えるように。
「どうしたの?」って聞かないようにしなきゃ。毎朝見てることがばれちゃうから。
「『雨上がり』よかったよ」が、最初の言葉。
「『雨上がり』よかったよ」。頭の中で、練習を重ねて、電車を待った。
アナウンス。そして電車がやってきた。
1両目に、彼女は乗っていない。
僕の前で電車が停まり、扉が開いた。
彼女を目で探した。
あれ、見つからない。
後ろの人が僕に近づく。
どうしよう。
僕は列から離れ、2両目の後ろの扉に進んだ。
電車の中を見ながら。彼女を探しながら。
2両目の後ろにも、彼女はいない。
3両目に向かった。
いない。3両目の後ろへ。
いない。
電車の扉が閉まった。
走り去る電車の中に目をこらしたが、彼女を見つけられなかった。
僕は、あと3本、同じように、彼女を探した。
いなかった。
遅刻して、学校に向かった。
先生に叱られ、席についたが、授業は耳に入らない。
どうして、どうして。
そればかり考えていた。
翌日も同じように、早く家を出た。
いつもの電車の次まで待ったが、彼女はいなかった。
その翌日も。さらに翌日も。
彼女はいなかった。
授業に身が入らず、受験に失敗。
食事もあまり食べられず、親に心配をかけてしまった。
予備校では、ただ勉強した。
もう、本は読まなかった。
いつの間にか、彼女のことは気にならなくなったけど、電車はいつも2両目に乗った。
2両目の前の方。
時刻も、路線も違うのに。
体が自然と向かってた。
1年間の浪人生活の後、志望校に合格した。
入学式も終わり、講義が始まった。
大学には、電車で自宅から通う。
月曜日の朝。高校時代よりも少し遅い時刻に駅に向かう。
ホームでは、なんとなく2両目の前の方の列に並んだ。
文庫本を読みながら、電車を待つ。
やわらかい陽差しのなか、電車が駅に滑り込んでくる。
扉が開き、降りる人を待って、電車に乗り込む。
流れに身を任せて、奥の方に進む。
文庫本を開き、読み始めると、さらに奥の方から、「あっ」と小さな声がした。
何げなく、その声の方に目を上げると、そこには僕の方を見ている、栗毛色の髪の、メガネをかけた女性がいた。
彼女だ。
僕は、現実のことなのかどうかわからず、混乱しながら彼女を見つめた。
「やっぱり!」
彼女が、僕を見てほほえむ。
僕は混乱したまま、動けずにいた。
彼女がうまく人をよけながら、僕の方に進む。
僕はまだ、口も開けない。
彼女は僕の前に立ち止まり、「覚えてる?」と小さな声で僕に聞いた。
忘れるわけなんてない。
君に会いたくて、毎朝必死に電車の中を探したんだ。
嫌われた、と落ち込んで、食事ものどを通らなかったんだ。
君と会いたくて、話したくて、どうかなりそうだった。
君のことを忘れたくて、考えないようにするために、必死だったんだ。
思いが体をかけめぐる。
でも、何も言えなくて、涙が出そうになる。
目に力を入れて、耐えていると、「覚えてないか。そっか」と少し悲しそうに、彼女がつぶやいた。
「覚えてるさ。もちろん。あの日、『雨上がり』を全部読んだんだよ。一章ルールを破ったんだ。それなのに・・・」
思いが早口であふれて出た。
回りの人が一斉に、僕の方に振り向く。
「あっ」
恥ずかしくなって、下を向いた。
「ねえ、次の駅で降りない?」
彼女が言った。
「うん」
下を向いたまま、小さく答える。
周囲の人も、何事もなかったかのように、それぞれ手元のスマホに目を戻す。
僕は、ゆっくり彼女を見上げた。
彼女はやわらかく微笑んでいた。
図書館で見せた、天使のような笑顔で。
僕は、心があたたかくなり、彼女の目を見て、もう一度小さく「うん」と言った。
彼女はほほえみ、手元の本を読み始めた。
僕も文庫本を開き、文字を目で追った。
頭には何も入らなかった。
ただ、この奇跡が現実でありますように、と願った。
次の駅に着くと、僕らは電車を降りた。
彼女はほほえみ、「時間、大丈夫?」と聞いた。
「大丈夫。きみは?」
「大丈夫。ねえ、図書館以来だよね?」
僕は、心で「ミシリ」という音がするような気がした。
「うん」
それ以上は何も言えなかった。
彼女はほほえみ、「『雨上がり』の感想、聞かせて」と、明るく聞いてきた。
僕はまだ混乱しながら、「えっと。ラストに驚いた。あの終わり方はないな、と思った」と答えた。
「そうだよね。同感。山内淳さんらしくないよね」
「うん。僕はハッピーエンドが好きだから」
「やっぱり!私もそう。あのとき『海の向こう』に何度も手を出してたから、行け、それだ!それを取れって、内心で祈ってたの」
「そうだったんだ。でも、だったらなんで、『雨上がり』を勧めたの?」
「ごめんね。意地悪だったね。でもね、あの終わり方に、何だか別の意味があるような気がして。誰かに聞きたかったけど、周りはだれも本を読んでいなかったの」
「そうなんだ。だったら、もう一度読むね。あのとき、あまり集中して読めてなかったから」
君のことが気になって、と心の中で付け加えた。
「ありがとう」と言う彼女の笑顔に甘えていいような気がして、思い切って聞いてみた。
「あれから、図書館で会えなかったね」
図書館だけではないけど、という心の声を押さえつけた。
「そうなの。実は交通事故に遭っちゃって」
「ええ!大丈夫?」
「それが大丈夫じゃなくて。3カ月間も入院したの。受験もできなくて」
彼女は、本当に痛そうな表情で続けた。
「退院後もずっと自宅にいたの。自宅で浪人生活。今年、何とか大学に受かって、実は外に出ることにはまだ慣れてないの。だから、知った顔に会って、うれしくて声をかけちゃった」
「そうだったんだ」
そうだったんだ。僕のことが嫌いだったわけではないんだ。僕に会いたくなかったから、ではないんだ。
うれしくて、涙がこぼれ出た。
「どうしたの?泣いてくれるの?もう傷は治ったから、心配しないで」
彼女は誤解してたけど、僕はうれしくて、涙を止められずにいた。
「大丈夫だから。本当に」
あわてる彼女に申し訳なくて、「いや、ごめん。大変だな、と思って」と話を合わせた。
「ごめんね。びっくりさせたよね」
「もう大丈夫なの?」
「うん。でも、本当のことを言うと、まだ早く歩けなくて。人混みとか、流れに合わせられずに、ちょっとこわいけど」
そう言うと、また笑顔を見せて、「早く慣れなくちゃ、ね」と、右手で小さくガッツポーズした。
「あの、迷惑でなければ、僕がエスコートするよ。僕は背が高いから、遠くが見えて危険も察知できるし」
彼女は、声を出して笑いながら、「なんだか、キリンさんみたい」。
そしてほほえみながら僕に聞いた。
「そう言えば、名前も知らなかったね。聞いてもいい?」
それから毎朝、僕らは2両目で待ち合わせた。
高校時代と違って、二人とも「2両目の前の方」。
高校時代に夢見てたことが、いま、叶っている。
でも、今の夢は、彼女の笑顔をこわさないこと。
告白は、いまはしようと思わない。
自分の気持ちにはゆっくり向き合えばいい。
遠くを見渡しながら、彼女を守る。
小百合を、僕が守る。
小百合の笑顔を見ながら、「この幸せがずっと続きますように」と2両目の神様に願った。
了
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