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 それはまだ美波が平凡を愛する生き方に目覚める前のことだ。五歳の彼女は保育園のお遊戯会で、ステージに上がっていた。綺麗なドレスを着せられてスポットライトを浴び、シンデレラとして悲しげな姿を見せる。他の子より少し背が高く、見栄えも良かった上、先生たちからの評判も良かった。物分りがよく、大人びて、他の子たちに指導をしてあげられる。そういう特別な人材は園でとても重宝がられていたし、褒められるから美波もそれに応えようと頑張っていた。  そんな彼女の日頃の努力は、彼女を舞台で主役へと押し上げた。初めての演技だったけれど、当時何人も児童劇団や芸能事務所のジュニア部門に所属していた子どもたちを押しのけ、圧倒的な存在感でシンデレラを演じ切った。多くの人の視線と歓声が自分に注がれるという経験はあの一度切りだったが、まるで自分が映画の向こう側の主人公のように光輝いて感じたものだった。  けれどその舞台の後で、美波の状況が大きく変化した。当時舞台や芸能クラスに所属していたグループの一番中心だった佐川希美(さがわのぞみ)という女子が、突然美波のことを打ったのだ。今までは仲良くしていてひょっとすると将来は親友になれるのではないかと期待していた、見た目もよく、賢く、美波によく似た感性の持ち主だと思っていた。しかし違ったのだ。彼女は主役でいたかった。誰よりもその願望が強く、その為なら自分が嫌なことだろうと我慢して笑顔を浮かべている。そういう女性だった。  しばらくすると彼女は園を移っていった。引っ越した、とだけ先生からは聞かされたが、方々から聞こえてきた噂話ではシンデレラ事件の後で酷く落ち込んで芸能事務所も辞めてしまったらしい。 「だから目立つことはね、誰かを不幸にすることでもあるの。私はそれ以来、目立たないと決めた。何より自分の人生にとって損になるって分かったから」  封印をしていた思い出を語ると、今まで面倒な妹のように「なんで?」と繰り返していた須藤紅音の表情が急に同年代のそれになった。 「何よ?」 「座ってて、いいから」  低い声でそれだけ言うと、彼女は手際よくパソコンを操作してブラウザで動画サイトを映す。 「私、やらないって言ったわよね?」  けれどその声も無視して、彼女は何かを探していた。 「あった」 「だから何?」 「見て」  それは一人のVチューバーの生配信を録画したアーカイブ映像だった。ピンクの髪の能天気なほど明るい声の女の子が元気にゲームをして笑っている。彼女の一挙手一投足にコメントは盛り上がり、実に楽しそうな配信になっていた。 「これが?」 「中の人が佐川希美」  ――え。 「このモデルね、あたしが準備してあげたの。普段はほんと真面目な文学少女みたいな成りなんだけど、彼女の内側にね、こういうみんなを楽しませたい、盛り上げたい、それからみんなにそういう自分を見て欲しいっていう気持ちが隠れてた。あたしはそれを引き出すようなガワを創ってあげたのよ。だからね、これは佐川希美の本当の姿」  ずっと彼女を傷つけたと思っていた。他人の人生を歪めてしまったと思っていた。だから自分は平凡な人生を生きなければならないと思っていた。  けれど彼女は自分で本当の自分を見つけ、今そこで輝いている。  それを知った時、不意に肩を叩かれた。 「あたしはね、本当の美波ちゃんとお話したい。ずっとそう思ってたんだよ?」     ※  その朝、美波は薄曇りの空を見上げながらバス停へと向かっていた。どの生徒も同じ制服にそう違わない髪型、持っている鞄だって同じだ。楽しそうに友だちとお喋りをし、やってきたバスにわいわいと乗り込んでいく。美波もその列に続いて、輸送車のように同じような学生を詰め込んだそれに入った。  バスは少し荒々しい運転で学校前までやってくると、平凡さの中で生きている生徒たちを次々に吐き出し、また次の生徒を吸い込むために発車していく。 「おはようございます」  校門に立つ先生たちも変わらない挨拶をし、それに対して美波もいつも通り、小さな声で「おはようございます」と会釈をして通り抜ける。美波の平凡な一日が、また始まった。    その八時間後、美波はパソコンのモニタを前にして、大声で笑っていた。 「いよっし! みんな、見てくれた?」  目線を右のモニタに移すとコメントが滝のように流れていく。自分がした発言にリアルタイムで返事があって、それに対してまた彼女が声を上げると更にコメントが加速する。  不思議だった。今まで自分を出してはいけない、目立ってはいけない、平凡に過ごさなければいけない。そう思っていた意識の重りが、須藤紅音のパソコンルームでは驚くほど軽くなる。  もう一人の、本当の野田美波がそこで笑っていた。そんな姿を見て、須藤紅音もやはり、笑っていたのだった。(了)
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