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平凡という言葉に誰もあまり良い印象を抱かない。それは普通もそうだし、いい人だって大差ない。けれど大半の人間は平凡だし、凡庸だし、普通と呼ばれるような範囲に収まる人生を送り、特に目立つことなく死んでいく。そんな一生だ。
「おはようございます」
俯き加減で校門の前に立つ教師たちの目線を避けるように小声でそう返すと、野田美波は野暮ったい高校のチョコレート色のブレザーのスカートを膝で突きながら、校舎へと向かう。右手はしっかりと学生鞄を握っていたが、誰かが自分のことを注視していないだろうかという緊張からいくらか汗ばんでいた。革靴はやや濡れたアスファルトの上を、今日も変わらずに歩いていく。その様は遠目にはただの高校生の女子というフレームでしか捉えられないものだろう。
「美波。あんたってほんと平凡ね。成績も教科によるけど中の上から中の下、顔もあたしに似て普通、友だちがいない訳じゃないけど通知簿にもう少し積極的になりましょうということ以外に先生が書くことを見つけられないくらい、何の特徴もない。もっとこう、なりたいものとか、夢とか、自己表現とか、そういうのないの?」
昨夜の食事の席での母親の言葉だ。実の娘に向かって“平凡”という言葉を否定的な意味で使い、今の状態が悪いものと決めつける。彼女は小さい頃からそうだ。隣の芝生を青く見すぎていて、おそらくそういう人生を送ってきたのだろう。他人が羨ましくて仕方ない。だから平凡は悪だという考えを持つのは分からなくもない。
ただそれを娘に押し付けないでもらいたかった。
けれど平凡を愛する美波はわざわざ反論したり正論をぶったりはしない。
――うん。あんまり。
自己表現の苦手な、内気な思春期の女子を演じる。
周囲から意に介さない言葉を掛けられても言い返さなければ良い。抗わず、立ち向かわず、流れが収まるのを待つ。張り合いがないと感じた途端に彼らは美波を「平凡」という箱に押し込めて、去っていく。そうすればもう美波の勝利だ。
本当の勝利というのは見えない場所にこっそりと埋まっている。
グラウンドの桜がほぼ葉桜に変わってしまったこの日も、美波の一日は平凡という言葉に実に従順だった。
その安堵を抱えて地下鉄のホームに下りてくると人は疎らだ。まだ四時を過ぎた辺り。文庫本をそっとブレザーのポケットから取り出すと、淡い花柄のブックカバーが美波の手の上で開いた。やはり学校の中よりも外にいる時のほうが、いくらか心に余裕が生まれる。意外と同世代の人間の中で平凡でいるということは大変だ。何をしても目立ってしまう。その要素となり得る。もしまかり間違って目立ってしまったら、学生生活ガチャが始まる。失敗すれば何となくある連帯感の輪から弾き出され、いじめられるとまでいかなくとも、息苦しい学生生活を送らなければならなくなる。
――あ。
ホームの対岸だった。文庫本から顔を上げて思わず視界に入れてしまったのは、真っ赤なショートヘアを揺らしてスマートフォンで音楽を聞いている同世代の女子だ。オレンジや紫の派手な迷彩柄のパーカーを着て、下はワニの革だろうか、爬虫類系のハーフパンツだ。素足を出した足元は厚底のスニーカー。これもショッキングピンクの蛍光色で隣に立とうとした会社員らしきスーツの男性は気づいてぎょっとして彼女を見た。
この派手な少女の名を、美波は知っていた。
須藤紅音。かつてのクラスメイトだ。十歳にして大ヒットアプリの『ふらふらペンちゃん』を作り、未来のジョブズと呼ばれた当時の天才少女も、今や誰も知らない「あの人は今」枠の過去の人間だった。
――あんな風にはならない。
そう誓った彼女のその後のことをよく知らないが、相変わらず目立っているところを見ると、性格はひねたままなのだろう。美波は視線を合わせないように文庫本へと顔を戻したが、小さな光を感じて再度、ホームの向こう側を見る。何がおかしいのだろう。須藤紅音は美波のほうにスマートフォンを向け、笑いながら何度かシャッターを光らせた。
その一分後にLINEの着信音が鳴り「ひさしぶり」というメッセージと共に、美波の、びっくりして眼鏡の奥で目を大きくしている写真が貼り付けられていた。
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