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酒楼の一日は午後からが本番だ。
遅い昼飯を食べ、仕込みをしながら開店の準備をする。店主である父が酒には強い信念を持っているため酒の仕込みについては任せきりだが、軽い食事の提供や給仕はほとんど晏珠の仕事だ。広い店ではないので他に雇っている人間もおらず、夕飯時からは目が回るほど忙しくなる。
かつては庶民が勝手に酒を造ったり売ったりすることは国が許可していなかったが、いつの時代からか黙認されるようになり、今はすっかり認められていた。代わりに税は取られるが、なんとか父娘二人で生活していけるほどの収入は確保できている。
と言っても、贅沢はできない。数年前から肺の病を患っている父の薬代も稼がなければならないし、酒や野菜の価格はその年の気候に大きく左右される。
そういう意味では、「御鳥児」の存在は晏珠にとっても重要だった。彼女たちの歌声は安定した気候を導き、長雨や渇水、大嵐、大雪などの天災が起こらないよう祈願するためにある。考えてみれば大変な役割だ。まだ年端もいかない少女たちの肩に、民の命がかかっていると言っていいのだから。
……だからと言って、自分がなりたいかと言えば話は別なのだが。
――だって、私にはここでの「役割」があるし。
使用済の皿を洗いながら、晏珠は天井を仰いだ。
羽の徴が現れてから数日が経つが、幸い今のところ誰にも知られてはいなかった。父は元々寡黙な性質で、娘の服装にあれこれ口を出す方ではない。常連客の何人かは首に巻いた薄布を指摘してきたが、汗止めだと言えばそれ以上は追及されなかった。
残念ながら徴が薄れる気配は全くなく、未だくっきりと浮き出ているが、このままやり過ごそうと晏珠は考えていた。辻のお触れもそのうち替えられるだろう。新しい御鳥児が選出された、という内容のものに。それまでの辛抱だ。
夕飯時から数時間が過ぎ、そろそろ店内も落ち着いてきた頃だ。酔いつぶれて寝てしまっている常連客もいる。店の隅では父が飲みすぎている客に声をかけ、そろそろ帰るよう促していた。
まったく父さんったら、晏珠は苦笑する。父の丹渓は酒の飲み方についてもいちいちこだわりが強い。酒は人を楽しませるものであって壊すものじゃない、と言い放ち、無茶な飲み方をしている客がいたらそれ以上は売らずに止めるのだ。巷では金になるならいくらでも売る店や、裏でこっそり私娼を抱えているような店も多々あるというのに。
そのおかげかこの店の常連客は父の気質をよく知っており、それでも父の造る酒が飲みたいと言って来てくれる者ばかりである。ありがたいことだ、と晏珠は思う。商売は誠実であるに越したことはないが、それだけでは上手くいかないのが世の常だろうに。
父がなだめていた客はそれでも未練がましく酒をちびちび舐めていたが、皿を片付ける晏珠に気づいて呼びかけてきた。
「なあ晏珠よぅ、いつものアレ、歌ってくれよ」
「あらなに、沃徳おじさん。また泣いてるの?」
いつものアレね、と晏珠は腰に手を当てる。沃徳というこの壮年の男性は父の古くからの友人だ。晏珠と同じ年の娘がいたが、幼い頃に流行り病で亡くしてしまったという過去があり、酒を飲むとそのことを思い出してさめざめと泣き出すのだ。
晏珠は父に目配せをした。旧友の事情を知っている父も、やむを得ないという表情で頷く。やり取りを見守っていた他の常連客がやんやと囃し立てた。
「いいぞぉ、晏珠。次はおれも頼むよ」
「おめえはこの前も同じ注文してたじゃねえか。たまにはおれにも譲れ」
「あーはいはい、順番ね。まったくもう、うちはそういう店じゃないって何度も言ってるでしょうに」
晏珠はひらひらを手を振って常連客たちをいなし、姿勢を正した。目を閉じて息を深く吸い込み、最愛の娘を亡くした哀れな父親の要望に応える。
――鳥よ 小鳥よ 今夜は月夜
――羽をおさめておやすみよ……
国の小さな子供なら、誰でも知っている子守唄だった。沃徳の妻もよく娘に歌っていたという。
沃徳の目にまた新たな涙が浮かび、背中を丸めておいおいと泣く。父がいつものようにその背中を撫でた。
「あの子はなあ、本当にいい子で……いい子でなあ」
「ああ、よーく知ってるよ」
「そうだろ。晏珠を見てるとよぉ、あの子も生きてたらこんなになってたんだろうなあ、って思っちまって……」
「始まったよ。沃徳のやつ、毎度同じこと言ってやがるな」
「まあそう言ってやるな。大事な一人娘を亡くしたんだ。分かってやれよ」
――ゆれて ゆられて 籠の中
――まもり まもられ 夢の中……
もう何度歌ったか分からない子守唄を、今日も晏珠は歌う。沃徳だけでなく、他の客からも毎日のように様々な歌の要求がある。
そう、晏珠のもう一つの役割はいわば「酒楼の歌姫」だった。
子供の頃から歌は好きだった。父の店を手伝いながらいつも歌っていたせいか、常連客は晏珠の歌を聞きたがり、上手い上手いと褒めてくれたものだ。それがいつからか定番になり、気が付けば毎晩歌を披露するようになっていた。
頑固な父は晏珠の歌で客を集めることを良しとしなかったが、常連客の要望を無視することもできず、こうして客の少ない時間帯に歌うことで事実上容認している。晏珠としては歌くらい構わないのだが、うちはそういう店じゃない、というのは父の言い分だ。中には投げ銭をしようとする客もいたが、父は頑として受け付けなかった。
そんな大層なものでもないのにね、と内心晏珠は思っていた。どうせなら歌でも稼いでしまえば、生活ももう少し楽になるかもしれないのに。
とは言え、商売にしないからこそ気楽に歌えるというのも確かだ。金を受け取るということはそれなりの水準や質が求められる。当然、客からの要求も上がるだろう。そうなると一体何の店なのか分からなくなる。父の考えも理解はできるので、晏珠としても無理を言うつもりはなかった。馴染みの常連客の些細な癒しとなり、明日への活力になってくれればそれで十分だ。
――愛し 愛らし かわいい子
――おいで この手に 抱かれて
――羽を伸ばしておやすみよ……
晏珠が最後の句を歌い上げた時、突然、店の扉が開いた。
常連客も、父も、晏珠も、皆が扉に視線を向ける。
そこに立っていたのは、知らない青年だった。
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