4 冬の波紋

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 再び泣き出した桜喜に、蒼雷は困った表情を浮かべる。両肩に乗せた手をそろそろと外し、ぎこちなく頭を撫でた。 「お、お姉様は……御鳥児になるために、ずっと……頑張って、こられて……」 「うん、知ってる」 「どうして……? わ、私、どうしたら、良かったの……?」  顔を覆って桜喜は慟哭する。無理もない。おそらく、姉の藤喜も被害者なのだ。  幼い頃から歌が上手く、歌えば両親も先生も皆褒めてくれる。嬉しくなってまた歌えば、さらに喜ばれる。お前は特別だ、いつか神の小鳥に選ばれるに違いない――と繰り返し刷り込まれれば、誰だってそこに自分の存在意義を見出す。  それが粉々に打ち砕かれたのだ。挫折と言ってしまえば簡単だが、正気を保てないほどの衝撃を受けたに違いない。生きる意味をすっかり見失ってしまうほどに。  そして、そんな姉に憧れてきた妹もまた、これまでの価値観を根底から崩されてしまった。 「反省してほしいのはむしろ、ご両親ね……」  晏珠の呟きに、蒼雷が頷いた。 「俺も、そう思う。藤喜は、歌で人にちやほやされるのが癖になって、それに固執するようになってしまったけど……子供の頃は、ただ親が喜ぶのが嬉しくて歌ってただけだし」 「そうよね。子供は、親の期待に一生懸命応えようとするものだから」 「桜喜を蔑ろにしてたのは、見てて気分が悪かったけど。御鳥児に選ばれなかったことで十分報いは受けたと思うから。あとは雀家の問題だと思ってる」  蒼雷の言う通りだ。これは雀家に染み付いた価値観が生んだ問題であり、一朝一夕にどうにかなる話ではない。桜喜の両親にしても、先代から受け継がれてきた思想の下で娘たちを教育してきただけで、おそらく悪気があったわけではないだろう。     しかし、歪んだ価値観の下で明確に娘たちを差別してきたのは事実である。晏珠としては、両親にはあまり同情できないのが正直なところだった。  未だ泣き続ける桜喜の隣で、翠芳も目を赤くしていた。柳星も、隣で神妙な顔をしている。  しゃくり上げる桜喜に、晏珠は優しく言った。 「桜喜。いいのよ、言いたいこと、全部吐き出して」 「い、言いたいこ、と……?」 「ええ。どんなことでもいいわ、ここでは誰もあなたに怒らないし、非難したりもしない」 「……でも、そんな、我儘……」 「我儘なんかじゃないわよ。ね、静牙」  黙って成り行きを見守っていた鳥番は、晏珠の言葉に「ああ」と頷いた。 「溜め込むのは身体に良くない。それに、君の我儘は多分、我儘のうちに入らないだろう」 「そうよ。どんなことでもあなたの鳥番が受け止めてくれるわ」  言いながら蒼雷に視線を送ると、彼は力強く頷いて、また頭を撫でた。 「桜喜。言って、大丈夫だから」 「わ、私……私は」  彼女の性格上、家族への恨み節はなかなか口をついて出てこないだろう。それができるのは多分、もっと先だ。  だが、泣くだけでも気持ちの整理にはなる。きっと、桜喜はまともに涙を流すこともできないまま、ここまで来ている。自分が辛い目に遭っていること自体、無自覚だったのだから。  やがて、濡れた唇から言葉がぽつりと溢れる。 「私……う、歌い、たかった」 「歌いたかった?」 「はい……昔、みたいに、家族みんな、で」   途切れ途切れの呟きを聞いて、晏珠はさらに問いかけた。 「昔、家族で歌ったことがあるのね? どんな歌を?」 「あ……暁の、歌、です」 「暁の歌って……年明けを祝う、あの歌よね?」  泣きながら、桜喜はこくこくと頷いた。  羽ノ国は、春の訪れと同時に年が明ける。そのため、春の御鳥児は、新たな年明けも同時に導かなければならない。ある意味、他の御鳥児よりも課される役目が重いとも言えるのだ。  その日は「春暁節」と呼ばれ、国民は家族とお祝いの膳を囲みながら歌う。この時必ず歌われるのが「暁の歌」だ。羽ノ国の民なら、子供から老人まで知っている。本来はゆったりした歌だが、実際には手拍子や楽器などを自由に鳴らしながら、少し速めに、そして明るく歌われることが多かった。 「子供の、頃……家族、皆で、歌いました。でも、いつしか、お姉様だけが歌うように……」 「それが……あなたの、大切な想い出なのね」  年始の席に並ぶご馳走、家族揃って口ずさんだ祝いの歌。桜喜にとって、それは貴重な家族団らんの光景で――いつしか失われてしまったものであり、真に渇望していたものだったのだろう。  晏珠は翠芳と視線を合わせて、頷いた。もう歌えないと泣いた少女が、本当は皆で歌いたかったと言うのだ。それならば。 「歌いましょう、桜喜。今ここで」 「で……でも、新年はまだ、先で」 「そんなの、気にしなくても大丈夫よ。何なら練習だと思えばいいわ。蒼雷、笛は吹ける?」 「当然。あの歌なら毎年吹いてる」  蒼雷が笛を構えたのを見て、晏珠は桜喜の背中を軽く叩いた。 「桜喜、好きなように歌えばいいのよ。子供の頃――家族と楽しく歌った時のことを思い出して」 「楽しく……歌って……」 「そう。さあ、いくわよ」  晏珠の掛け声で、皆が揃って歌い出す。  ――咲く花よ 照らす陽よ  ――終わりなき 目出度き御世……  柳星が手拍子を打ちながら笑う。蒼雷は笛で見事に対旋律を奏で、静牙は落ち着いた声で支えてくれていた。  ――晴れやかに 夜は明けゆく  ――迎えよう 新たな春を……  掠れていた桜喜の声が、少しずつ明瞭になってくる。  晏珠は翠芳に目配せして、主旋律から離脱し、途中から即興の和声に切り替えた。綺麗に調和した音が、庭に響く。  ――高らかに 歌え空へ  ――平らかに 歌え友よ……  意図を汲み取った翠芳も別の和声を歌い始め、高音の主旋律は桜喜だけになった。  一瞬、桜喜が戸惑ったのが分かったが、歌はそのまま流れていく。静牙と柳星が低音の旋律で支え、晏珠と翠芳が和音で厚みを出し、蒼雷の笛が彩る。  桜喜の頬が上気した。響き渡る調べに寄り添うように、彼女は旋律を歌い上げていく。  ――とこしえに 続く調べを……  歌が終わると、誰からともなく拍手が起きる。  皆、笑顔になっていた。桜喜の涙もいつの間にか止まり、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
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