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1 晩夏の出会い
――いやいやいや、嘘でしょ? 有り得ないわよ!
その日の朝、晏珠は鏡に映った自分を見て頭を抱えていた。
首元に浮かび上がる、紅い徴。一対の羽の形をした、一見痣のようにも見えるそれは、昨日までの自分にはなかったものだ。
ぶつけたわけでもない、もちろん誰かに首を絞められたわけでもない。それなのに、見間違えることを許さないほど鮮やかに、くっきりと羽の形が現れている。羽ノ国の住民ならば、この意味を知らない者はいないだろう。
――神に選ばれし、御鳥児の徴。
「……ンなわけないでしょ?! 私、いくつだと思ってんの?!」
杜 晏珠。酒楼生まれの酒楼育ち。
つい先日、25才を迎えたところであった。
ここ、羽ノ国では、古くから銀鴒天主という神が信仰されている。生命の循環を司り、四季の流れを正常に保つことで地に豊かな実りをもたらすとされる神で、大きな羽を広げた鳥の化身のような姿で描かれる。各地には天主廟と呼ばれる祈祷所があり、民の信仰を集めていた。
この銀鴒天主は、若い少女の歌声をことさら好むと言われていた。彼女たちの歌によって神は癒され、季節を導いて死と再生を繰り返し、地に恒久の平和をもたらすという。そのため、国では「御鳥児」と呼ばれる未婚の少女が4人選出され、神に仕えていた。
春を導く御鳥児、「花鴒」。
夏を導く御鳥児、「光鴒」。
秋を導く御鳥児、「風鴒」。
冬を導く御鳥児、「雪鴒」。
御鳥児に選ばれた少女は、ある日突然首元に紅い徴が浮き出るという。大体は15才前後の少女に現れるとされ、5年程度で薄れてきて次代の御鳥児と交代するのが常だった。
彼女たちは徴が出ている間、王宮の奥にある離宮で生活し、毎日神に歌を捧げる。また、各自受け持つ季節が決まっているため、四季の変わり目には「導きの儀」を行い、季節が滞りなく移り変わることを祈願する、とされていた。
神に仕える清らかな歌姫、御鳥児――羽ノ国に生まれた娘であれば、一度は夢見る存在である。今日こそ首に徴が出ないか、期待して鏡をのぞき込む娘は数知れず。
実際、御鳥児の務めを終えた娘は、引く手数多で嫁ぎ先には困らないという。引退後は何の力も持たないにも関わらず、だ。晏珠も例に漏れず、幼い頃は「私、御鳥児になりたい!」と口走ったこともあった。
だが、それも10代前半までの話だ。
15才前後で選ばれるという慣例がある以上、10代後半になっても徴が出なければ、もはや可能性はないと言っていい。いくら5年ほどで交代すると言っても、国中でたった4人なのだ。余程声が美しく、歌が上手く、容姿も神に愛された存在に相応しく美しい少女に違いないと、庶民の間ではまことしやかに信じられていた。ほとんどの娘は夢破れ、20才前後で相手を見つけて嫁いでいくのが定石である。
晏珠はすでに25才、酒楼の常連客からは行き遅れを真剣に危惧されている年齢だ。同年代の友人のほとんどはとっくに誰かの妻になっており、子育てをしている者も多い。母を早くに亡くし、男手一つで育ててくれた父親が最近病気がちなのを心配して家を離れずここまで来たが、そろそろ身の振り方を考えなければと思っていたところだった――その矢先に、これである。
「……見間違いじゃ、ないわよね」
改めて鏡をまじまじと見つめてみるが、首元の徴ははっきりと存在感を主張している。これでは他の人にもしっかり認識されてしまうだろう。
確かに、御鳥児の一人が交代の時期ではあるらしい。晏珠の家は都の外れにあるが、辻にお触れが出ていたのを数日前に見かけた。御鳥児は徴が薄れてくると交代のお触れが出され、新しい御鳥児はすみやかに名乗り出るよう促されるのだ。近くの天主廟に赴けば、王宮に繋いでもらうことは可能だろう。
が、今の晏珠が名乗り出たところで、果たして信じてもらえるのか。25才の御鳥児なんて、聞いたことがない。
徴はしっかり出ているものの、年齢を言えば疑われるのは必至だ。晏珠自身、とても信じられないのだから。偽者の疑いをかけられ、尋問されるかもしれない。挙句、御鳥児を騙る不届き者として牢に入れられたり、もっとひどい処罰を受けたりする可能性も――……
「……やめとこ。何かの間違いだわ、きっと」
数秒で決断し、晏珠は鏡を離れた。
幼い頃ならいざ知らず、今の晏珠に御鳥児に対する憧れなどない。歌うのは好きだが神に捧げる歌なんて全く知らないし、毎日歌って祈りを捧げるだけの堅苦しい生活なんて今更耐えられそうもない。どうせ監視が厳しいだろうし、お酒だって飲めないに違いない。
徴は首元に出ており、服だけでは隠しきれない。だが、首巻で隠して生活すれば誰かに知られることもないだろう。夏の終わりという今の季節には少々暑いが、薄布なら汗止めになって丁度いい。留め具を付ければずり落ちてくることもない。
いずれ、自分ではない本物の御鳥児に徴が出るはずだ。そうすればまたお触れが出る。新しい御鳥児が選出された、と。その頃には、この徴もすっかり消えてしまっているだろう。
白い薄布を二重に巻いて徴が完全に隠れたことを確認し、晏珠は部屋を出た。時刻はそろそろ昼だ。父親に昼飯を用意して、今夜の仕込みに取りかからなければ。
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