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逃げたつもりだった俺と、逃がしたつもりはなかった彼と
降りた駅前にある牛丼屋で特盛りをテイクアウトして、その隣のコンビニに寄って缶ビールを買って、生ぬるい初夏の夜風を感じながら歩き、マンション前に着いたのは22時過ぎ。何やかや、週に2日はこれくらいの時間になる。
俺のマンションのオートロックは少し古い、暗証番号を押して開くタイプだ。因みに単身者向けなのだが、今まで若い女性入居者は見た事が無い。駅から少しばかり距離があり、寂しい道になるからかと思っていたが、どうも理由はそれだけではないらしいと聞いた。まあ、俺はそう気にならないしそれなりに快適なので今の所問題は無い。
オートロックを通過してエレベーターに乗り、最上階である7階に上がった。その間、他の住人と会う事は無かった。
エレベーターのドアが開いて、止まっていた空気が動く。真っ先に目に入るのは、オレンジ色の照明と、見慣れた通り向かいの似たようなマンション、そして夜空。帰宅時間は前後しても、いつもと同じ景色だ。
だから油断していた。
今日もいつもと同じ日で、同じような1日が終わるんだと。
外廊下を歩きながら鞄の外ポケットからキーケースを出し、部屋の鍵を右手に握る。俺の部屋は一番奥の角部屋だが、既にドアは見えていた。そこには10歩もかからず到着し、鍵穴に鍵を差し込んで回し、ドアノブを握ったところで、何か金属音が聞こえた気がした。おそらく、何処か他の部屋のドアの開閉音なのだろうが、疲れていた俺はさして気にする事もなく握っていたドアノブを引いて部屋に入ろうとした。
のだが…。
いきなり後ろから口を塞がれるのと同時に抱きつかれ、部屋の中に押し込まれた。いつもならドアを開けてすぐの壁際にあるスイッチを押して電気を点けるのだが、縺れ込むように押し込まれてしまった為にそれが出来ない。玄関を入ってすぐの床に背中からのしかかられて倒され、持っていた鞄と牛丼とコンビニの袋を取り落とし、玄関にばらまいてしまった。ビール缶入りの袋だったのに、鞄がクッションになったからか意外に音が響かなかった。背後でドアの閉まる音が聞こえた時、我に返った俺は助けを呼ぼうとした。だが塞がれた口では、くぐもった呻き声しか出せない。
(なに、何が起きた?)
混乱した頭で導き出した答えは、これは十中八九押し込み強盗だろうという事だった。
体を拘束している腕の衣服越しの固い感触といい、背後を取られた時に一瞬感じた感覚といい、相手が俺より上背のある男である事は明らかで、しかも背後を取られている以上、抵抗しても分が悪い。
真っ暗な中、俺の頭は目まぐるしく回転する。目だけをぎょろぎょろと動かしながら、最悪の状況を抜け出す手段を模索した。
男である俺の部屋に押し入ってきたのなら、レイプ目的ではなく金目当てだろうから、抵抗するのは即、命の危険があるかもしれない。犯罪目的を持った人間が、刃物や武器になりそうな物を所持していないとは考えにくい。押し入った先の家人が抵抗してくる厄介な相手なら、それでズブリと刺して殺した後に部屋を物色しても良いんだから…。
最悪の可能性に行き着き、ゾワッと背筋が冷えた。部屋の中にそんなに高額な家電や金品などは無いが、財布の中になら2日前に銀行ATMから下ろしたばかりの生活費として5万ほどは入っていた筈だ。
どうせ顔も見ていないのだから、それを差し出せば何とか勘弁して、大人しく引き揚げてもらえないだろうか…と、弱気な方法しか思いつかなかった。
だがその時、ふとある事に気がついた。
それは、香り。
俺の嗅覚と脳に刻み込まれた、忘れがたき香り。
匂いや音楽というものは不思議なものだ。全てを過去にして忘れ去ったつもりで暮らしていても、人混みの中で、たまたま入ったカフェで、或いはテレビを観ている時に。それに触れた瞬間、それらにリアルタイムで接していた頃に一気に引き戻されてしまう。
俺にとって、今鼻先を擽った香りがまさにそれだった。
(ブルームーンライト…)
それは、彼…篠原さんがずっと愛用していた、舶来物の香水だった。高額な為か少し癖がある難しい香りだからか、日本人にはあまり馴染みのないその香りが、何故か篠原さんが纏うとしっくりと似合った。日本人離れした容姿の美しさもあったのだろうが、体臭との相性も良かったのだと思う。彼はその香りを、いつもほんの少しだけ纏っていた。それが時間経過で彼の持つ体臭と混じり合うと、香りの癖が中和されて何とも良い匂いになる。ホテルの部屋で彼に抱きしめられる度、スーツや首筋からその匂いを感じて、俺は毎回うっとりしたものだった。
無知で若過ぎた俺が覚え込まされた、罪の香りだ。
数ヶ月前に再会した篠原さんも、近づけばやはり同じ香りがしていた。
では、今俺の背中から押さえつけているのは……。
(……いや、いや、まさか)
そんなわけが無い。
俺は浮かんだ考えを咄嗟に打ち消した。
これはタダの強盗だ、篠原さんである筈は無い。第一、再会してからというもの、彼とは仕事以外の話はしていない。彼の方もプライベートは探ってこなかったし、俺だってそうだ。彼の左手の薬指には相変わらず指輪が光っていたし、聞くまでもないと思った。
あの頃彼の奥さんのお腹には2人目が宿っていたと聞いた。夫婦仲は悪くなかったのだろう。彼の遊びがまだ続いているのかとか、それを奥さんは知っているのかとか、それは今の俺には関係無い事だ。彼だって、もう俺には興味は無い。いや、あの頃だって無かったのかもしれない。彼が俺と関係を持っていたのは、俺が自分にベタ惚れしていて、便利に抱ける都合の良い人間だったから。そんなところだろう。それが姿を消したからって、また別にいくらでも替えは居た筈だ。
その証拠に、再会してからのこの数ヶ月前の間、彼が過去に触れてくる事は無かった。
俺と彼の間を介在するのは仕事だけ。
そんな関係性でしかない彼が、こんな事をする理由が無い。
そもそも彼は此処の場所を知らない。ゆえに、この後ろの人物は、偶然彼と同じ香水を使用しているだけの別人だ。
そう結論付けた俺だったが、今度は唇の端に当たる固い金属の感触に気づいてしまった。
(…指輪?)
俺の口を覆う犯人の左手には、どの指かはわからないが指輪が嵌っている。それに気づいてしまうと、否定した疑惑が戻ってきた。
普通、強盗とはこんな風に素手で犯行に及ぶものだろうか?指紋などの付着を避ける為に手袋を付けたりするのでは?それに、いくら夜だとはいえ、力があって抵抗されそうな若い男を狙ったりするものか?単純に強盗目的にしたって普通はもっとラクな相手を選ばないだろうか?女性や老人だって、まだぽつぽつ外を歩いているのに、何故俺?
長時間締め切っていた部屋の空気は夜になっても温く湿っぽい。背中から男に密着されて身動きもままならず暑苦しい筈なのに、俺の額や背中に伝うのは冷や汗だった。
俺は息を飲む事すら出来なくなり、口内には唾液が溜まっていく。ただただ身を固くして、男の動向に神経を集中した。
俺が動きを止めたのを、抵抗する気が無いと思ったのだろうか。背後の男の気配が変わった気がした。
「…まなお」
(…!!)
耳元に寄せられた男の唇から流れた音に鼓膜が揺らされ、俺は目を見開いた。
それはやはり、彼の声だった。彼は懐かしい呼び方で俺の名を呼び、俺の耳朶を噛む。
ぐっ、と反応を耐えると、耳元でくつくつと笑われた。
強盗より彼であった事が良かったと思うより、何故という新たな恐怖が胸の中に湧く。そんな俺の気持ちを読んだように、彼は小さな声で囁いた。
「大きな声を出したら、僕は何をするかわからない」
ひゅっ、と喉が鳴る。
知らない内にマンションの部屋まで突き止められていた事を思えば、それは脅しではないように思えた。こくんと頷くと、口から彼の左手が外されて、今度は両手で抱きしめられた。
「どうして…」
俺が質問を口にするより先に、彼がそう言った。
「どうして、黙って消えたりしたの?」
「どうしてって…」
「酷いんじゃない?僕の愛が重かった?」
(は?)
何を言っているんだろう、と俺は耳を疑った。
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