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初恋は実らないなんて、いったい誰が
「…愛、って…」
「僕が本気になったから怖くなったんだろう?」
愛。彼の、愛?本気になった?そんなの嘘だ。
だって、あの頃の俺と彼の関係は、およそ恋愛と呼べるものではなかった。タダの不倫だ。そして気持ちの比重は、一方的に俺の方に傾いていた。
彼の奥さんのおめでたを聞いて、それに気づけた。だから離れた。あれ以上の泥沼に嵌る前に。
結果的に、その選択は正しかったと思っている。
片方で家庭を守っていながら、俺に本気になっていた、なんて。本当だったとしても、そんなの狡い。
「篠原さん…俺は…」
困惑しながら口を開いた俺の言葉を彼が遮る。
「いい。言わなくて。君の答えなんかもうどうでも」
「どうでもって…」
「どうせ、若い君にのめり込んだ僕を振り回したかっただけなんだろう?」
俺にのめり込んだ?馬鹿な。そんな様子には全く見えなかった。だが、そんな言われ方は心外だ。
「そんな訳ないでしょう!俺は、」
少し強い口調で答えると、ぐるりと体がひっくり返された。
暗闇に目が慣れてきていた目が、彼の姿を捉える。
天井を背に、泣きそうにも、怒っているようにも見える表情をした彼が俺を見下ろしていた。
「わかってるよ。妻子を捨てられなくて、君を選ぶ事も出来なくて、雁字搦めになった僕に呆れたんだろう」
「…違います。俺は、貴方との不毛な関係に気づいただけだ」
「不毛?」
「不倫じゃないですか。
それに、俺は貴方が俺に気持ちがあるとは思ってなかった。…篠原さんは、俺が逃げたから固執しているだけじゃないんですか?」
「よくそんな事が言えるね。僕があの頃、君と連絡を取れなくなって、店も辞めたと聞いて、どれだけ苦しんだか知らないくせに」
苦々しく口元を歪めながら言う彼に、さっき以上に目を見開いく俺。
(本当、なのか…)
俺の知っている彼は、常に余裕のある微笑みを浮かべていて、取り乱す姿とは無縁の人だった。
俺は彼でなければ駄目だったが、彼にとっては数居る遊び相手の中からたまたま選び取っただけの一人に過ぎない筈だと、そう思っていたのに。
それに…そんな事を今更聞かされても…。
俺は大人になった。そして、もう2度とあんな辛い恋はしたくないと思っている。誰かを傷つけて得られる幸せなんて無いと知っている。
彼が俺を愛していたと知ったからと言って、あの泥沼に再び足を踏み入れるつもりはサラサラ無い。
だから俺は、彼の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「…それは、ごめんなさい。でも、俺も辛かったんだ。奥さんに2人目が出来たって事を聞いて、これ以上奥さんや子供の居る貴方に関わっちゃいけないと思った」
「……やっぱり、それだったのか」
「貴方は俺に気持ちは無いと思ってた。だから何も言わなくても気にしないと思ったんだ。
会って顔を見てからだと、別れを告げる決心が揺らぎそうだったし」
言い終わる前に、両頬に温もり。彼の両手に包まれたのだとすぐわかった。
「愛緒…」
「…ちょ、やめて篠原さん」
迫ってきた篠原さんの顔。キスされそうなのだと気づき首を背けると、咎めるような鋭い声がそれを制する。
「僕を拒むな」
彼の手に顎を捕まれて上を向かされると、切羽詰まったような目が暗い部屋の中で濡れたように光っていた。
「…篠原さん…今更だよ。もう何年も前の事じゃないか。俺はもうあの頃の俺じゃないし、貴方だって…」
「うるさいよ」
とうとう唇が塞がれた。
7年振りの、彼の唇。唇を割り、歯列を割って侵入してくる舌からは、彼の愛煙している煙草の甘い匂いと、清涼剤の香りの混ざった唾液の味がした。懐かしさに胸が詰まる。
だが、受け入れてはいけない。
口の中を掻き回してくる舌を追い出す事が出来そうになく、それならと顔を背けようとしたが、頬を包む彼の手の力は思いの外強くて逃げられなかった。
彼は俺よりも体格が良くて力もある。結局はされるがままに貪られ、酸欠を起こす直前で解放された。
そして、肩で息をする俺の頬や髪を撫でる彼の口からは、信じられない事が語られ始めた。
「あの時は、変に大人ぶって君の家を聞いておかなかった事を後悔したなぁ。マスターも口を割ってくれないし、仕方ないから人を雇って調査させたんだけどね」
「調査…?」
「大学時代の友人が探偵事務所をやっててね」
探偵と聞いて、すうっと自分の血の気が引く音が聞こえた気がした。この場所を知っている時点で、それが冗談や世迷い言ではなく事実だとわかったからだ。今俺はどんな顔をしているのだろう。この暗がりの中、彼には俺の表情はどう見えているんだろう?
「でも、流石はプロだよね。2週間かからずに愛緒の事を見つけ出してくれたよ。」
「2週間…」
「それからはずっと見守ってた。愛緒がデパ地下のパティスリーで働き始めた時も、家電量販店の中のキャリアショップで頑張ってるのも何度も見に行った。勿論、今の会社に入社したのを機にこのマンションに引越したのも、引越して来てからの様子もずっと…。隣の部屋も、2年前に開いてからすぐ借り上げて、たまに泊まりに来ていたんだ」
「…?!」
このマンションは人の入れ替わりのスパンが結構早いと聞いていたからあまり気にした事が無く、隣の部屋の住人が入れ替わったのすら知らなかった。あまり生活音が聞こえなくなったとは思っていたが、まさか彼が借りていたなんて。
たまに来て泊まっていた…?その間、夜通し俺の部屋側の壁に耳でもそばだてていたのだろうか?両腕を皮切りに、全身に鳥肌が走った。
本当にこれは、俺が恋したあの人なのだろうか?
確かに俺は、昔この人が好きだった。身も世もあらぬという言葉があるが、本当にそんな恋をしていた。寝ても覚めても、あの頃の俺の生活は、彼と彼との恋で埋め尽くされていて、彼と出会う前に自分がどうやって生きてきたのか思い出せないくらい溺れて。やっと目が覚めてそこから抜け出した時には、精も根も尽き果てて、もう二度と人を愛せないと思ったほどだった。
けれど、それはもう過去だ。あれから7年もの時間が過ぎて、篠原さんはもう、俺の全てではない。
「俺を…ストーカーしてたの?」
問いかける声が震えた。だがそれに返ってきた彼の声は俺とは反対に、いつものような穏やかさを取り戻していた
「違うよ。何一つ君に迷惑は掛けず、君だって今僕が告げるまで知らなかっただろう?そういうのをストーカーとは言わないんじゃないかな」
「……」
確かに、世間で言われているストーカー被害に遭ったという事は…無い。少なくとも身の回りに違和感を感じた事は無かった。ストーカー規制法にも引っかかりようが無さそうだ。
だが、それは今までの話だ。
「…でも今、家宅侵入してるじゃないですか」
そう言うと、彼は小さく笑い声を上げた。
「そうだね。でも、僕達は恋人同士なんだから、その問題は無くなるだろう?」
「…え?…は?いや、俺と貴方は単なる不倫で、しかももう別れ…」
「僕は別れた覚えは無いよ」
キッパリとした口調に、思わず口を閉ざす。確かに俺は何も言わずに一方的に姿をくらませたが、元々俺と彼は恋人同士ではなく不倫。俺は彼に恋をして好きだと告白したが、そこから始まった付き合いはセフレか愛人のようなものでしかなかった。でもそれは俺も最初からわかって始めた事だったから、別に彼を責めるつもりはない。
彼は甘い言葉をくれはしたが、それは別に俺を特別な存在だと勘違いさせてくれるものではなかったと記憶している。
それを今になって、恋人同士のつもりで付き合っていたなんていくら言われても…正直、全く説得力が無い。
それどころか、聞いていて頭が痛くなってきた。だがそんな俺を他所に、彼は話し続ける。
「君が今の会社に入社した時から、やはり僕達は巡り会う運命なんだと思ったよ。いずれ再会する事になるのを、僕はわかってた。だからその時の為に、自分なりに準備も進めたさ。
次に君と再び結ばれる時は、永遠を誓う事になると思ったからね。今度こそは、君を幸せにすると決めていたんだ」
彼の言葉を、脳が咀嚼できない。何を言っているんだ?彼は再会を予期していた?再び結ばれる時は永遠を誓う時?
話している言葉は確かに日本語の筈なのに、会話ができる気がしない。
そう、話が通じないから堂々巡りで…。
(まるで別人…いや、宇宙人みたいだ)
尾骶骨から背筋を這い上がってくる悪寒が強くなる。
ずい、と至近距離に迫ってきた彼の顔。暗さに慣れた目には、彼の瞳に宿った狂気がはっきり見えた。
後頭部を掴む左手、腰を抱く右手、股間に押し付けられた、彼のスラックスの下の猛り。
「ひ…」
後退ろうにも背後はフローリングの床だ。がちりとホールドされた体は、上にすらずり上がれない。
「い、いやっ、嫌だっ!俺はもう、貴方とは…ッ?!」
喉仏に噛みつかれ、悲鳴が途切れる。痛い。噛みついた力に容赦が無かった。
「抵抗するのか?僕に?こんなに君を愛してるこの僕を拒否するのか?」
「ぐ…」
暑くて元々緩めていたネクタイが、彼の左手の指に解かれて抜かれた。
「7年だ。7年、君に触れず見守っていたんだ。君の気持ちを尊重したかったし、僕にも準備期間が必要だったから」
ブツブツとそんな事を言いながら、彼は俺のワイシャツのボタンを器用に外していく。危機感から彼の胸を押して抵抗したが、右手で頬を叩かれた。彼に手を上げられた事なんか、勿論一度も無かったからショックを受けて呆然。その間に俺のスラックスのベルトが引き抜かれ、ファスナーも下ろされてしまい、下着ごと足から抜かれた。
「嘘、いやだ…いや…」
「君と一緒になる為に、僕は妻子を捨てたんだ。」
「そん、な…」
離婚したって事か?でもそんな話、聞いてない。いや、プライベートを話す事が無かったからそれは当然か。でも、なら、変わらず左手の薬指に光っている、その結婚指輪は?
そもそも俺は、付き合っていた頃から、離婚して欲しいなんて口にした事はない。そんなものの上に築かれる彼との未来も望んでない。
なのに、今更そんな事を言われても。
緒の頭の中は処理し切れない疑問で埋め尽くされている。
そんな俺の気持ちを読み取ったのだろうか。
彼は自分の上着の内ポケットに指を入れ、ハンカチを取り出した。そしてそれを開いて何かを取り出すと、俺の左手を取って、それを薬指に通した。
「?!」
「僕のこの指には、もう4年も前からコレと同じ指輪が通されている。君のは…随分待たせてしまったな」
指輪を嵌められてしまったのだとわかり、気が遠くなりそうだ。つまり、今彼の指に光っているのは、以前見ていた結婚指輪ではなく、今俺の指に通されたものと揃いの指輪って事か??
自分の元から去った俺の為に離婚して、今度は俺と結婚の真似事をしようとしている、そういう事?
呆然とする俺。まさか彼にこんな突飛な真似が出来るなんて、想像すら出来なかった。
いや、して貰ってもという感じだ。あの頃の恋愛脳に陥っていた俺なら飛び上がって喜んだだろうが、生憎今の俺には1ミリも嬉しくない。
そもそも俺の中では、彼に対する思いは既に過去として昇華されてしまっている。好みのタイプに影響はしていても、それはそれなのだ。
そんな相手が、身辺整理してきたから今更どうこうと言われても…。
俺の脳内に、退勤前に栄養ドリンクを差し入れていってくれた同僚の笑顔が浮かんだ。
好きだと言われた。付き合って欲しいとも。アイツとならフランクな付き合いが出来そうだと気持ちが傾いている。
「…ごめんなさい、無理だよ…。俺、もう貴方とは…」
「今西という男にちょっかいをかけられているらしいね」
彼の口から同僚の名が出た事に、ぎくりとした。知られている。咄嗟に身構えた。
「アイツとは、別にまだタダの同僚で…」
思わず言い訳がましい言葉が出た。これではまるで、特別な感情があって庇っているようだ。
そんな俺に、彼はクスッと笑った。
「心配しなくても、まだ関係の無いぶんには何もしないよ。まあ…君次第だけどね」
「…」
何処か含みのあるその言い方に、彼以降に付き合った相手達とのごく短期間での自然消滅を思い出す。別に事故に遭ったとか死んだ訳ではないが、皆、2週間足らずで別れを告げてきた。理由らしい理由も聞けず、ただ、『合わないみたい』とだけ。
まさか、彼が何かしていた訳では…ないだろうな?
でも、有り得ない事でもないように思える。
今西と付き合う前で良かったと、何となく思った。
すっかり抵抗する気を失ってしまった俺の体を、彼は好きに愛撫した。
「ああ、愛緒の匂いだ…。あの頃より、体つきがしっかりしたね」
そんな事を言いながら、首筋を嗅ぎ、鎖骨に舌を這わせる。乳首をしゃぶり、内股に歯を立て、あちこちに吸い付いては肌に紅い痕を残した。まるで、所有権を主張するかのように。
彼らしくもない、荒々しい愛撫は、一刻も早く年月を埋める為の性急さだったのかもしれない。
初夏の陽気の中、日中は外回りで、帰ってからまだシャワーも浴びていない俺のアナルを舌と指で慣らしてくれた彼の愛は、多分本物なんだろう。
それに喘ぎながらも、俺の胸中は複雑だった。
その後、挿入の為に俺の両足を肩に抱え上げながら、彼は言った。
「責任取ってもらうよ。
愛緒は、誰も愛せなかった僕の心を初めて奪った人なんだから。
もう一生、逃がさない」
その言葉に気が遠くなる。
まさか、あんなにモテていた彼の方も初恋だったなんて。
人類史上、一番最初に初恋は実らないと言ったのは誰だったんだろうなんて思いながら、俺は彼の屹立したペニスを受け入れ、最奥を穿たれ続けた。
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