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第2話
Confusion ー 2
彼が言った様に、あの日の事はあの日だけの事になった。
本條さんが来院している時は、別室で話を聴いているが、それはあくまでも本條さんの近況報告を聴く為だけ。余った時間は仕事の話をした。
それ以外でも仕事の連絡は取るし、お互いの時間が合えば、会って直接話をする事もあった。でも決して前の様な事にはならず、その場で解散する事が殆どだった。
お互いがあの日の話はしない様にしている…気がしなくもない。灯里と本條さんの話になると、必然と恋バナの様にはなってしまうけど、それでもその事には触れない。
それでも屈託なく話をしたり笑ったり。普段とは違う…彼の素に近いのではないか…と、取れる様な顔を見せられると、どう受け止めて良いのか戸惑う。
(まぁ…話した所でって感じだしな。気にはなるけど深入りしたくないから、別にいいけどさ〜。あのギャップは、本当に止めて欲しいんだよな〜)
「…ゃ……おい、関谷。ちゃんと聴いてんのか?」
「ん?あぁ…えっと…すまん、後半の辺りから聴いてなかった」
灯里に声を掛けられるまで、そんな事をボーっとしながら考えていた。
「最近のお前、いつも以上に変だけど…何かあったのか?」
「いつも以上って酷くないか?ていうか…ん~そんなに変か?」
「変だろ。今みたいに上の空になってる時が多い」
「まじか……」と呟くと、灯里が「ほら、そういう所だよ」と言ったが、俺には灯里の言う「そういう所」が、どういう所なのか解らない。
「はぁ…解ってないだろ。まぁ、今はまだ仕事に支障はないし、俺以外は気付いてないみたいだから良いけどな」
「さすが元宮先生」
「茶化すな。そのままじゃあ、時間の問題だって言ってんだよ」
「あ〜それはヤバい。いや…ヤバいのかな……」
俺がブツブツ言っていると、灯里が溜息混じりに「だいぶキてんな…」と言葉を一旦切ると、続け様に言った。
「俺じゃあ相談相手にもならないか?いや、相談というより…話相手か?」
「いやいや、そんな事はない。けど、今はまだ話せないというか……自分でもよく解ってないんだよな〜」
「それだよ。自分でもよく解ってない事を、無意識に考えてるんだから、相当キてるって事だろう?」
「そうなのかな〜?」
確かに俺自身でも、無駄な事を考えてるとは思う。彼はそこまで深くは考えていないだろうし、本当にあの日限りで終わった事なんだから。
(なのになんで俺は彼の事を気にして、こうも思考を堂々巡りさせてるんだろうな…)
「まぁ、無理に話せとは言わない。でもお前だって存外、不器用なんだから…手遅れになる前に言えよ」
「あぁ…その時は頼むよ」
「じゃあ俺は帰るから。当直、頑張れよ」と言って、灯里は小会議室から出て行った。
(やっぱ灯里は医師としては優秀だな)と、素直に感心した。見てない様でいて…興味のないフリをしていても、ちゃんと周りの様子を見ている。
(それに比べて今の俺って…いや、俺は昔も今も何一つ変わってないんじゃないか?こんな状態じゃあ、誰に何を言われても反論の余地もないよな〜)
このままではいつか仕事にも、例の件にしても支障が出てるのは確かだろう。かといって、どうしたらいいのか皆目見当もつかない。
考えても仕方ない事はもう、考えるのは止めようとは思う。だけど、嫌でも彼に会うし話もする。距離を置きたいと思っても、それが出来ない状況で…。つまり、俺の気持ちの置き場がない訳だ。
(割り切る感じだったから、もっとビジネスライクになるのかと思ってたら…前より、素が出てる気がしなくもないんだよな〜。気の所為だとは思うけど…なんなんだあの人…)
俺は机の上の書類を纏めると、窓の戸締りをしてカーテンを引く。そして「そんじゃあ…当直、頑張りますか」と呟くと、小会議室の鍵を締めてスタッフルームへと向かった。
*****
その翌日。当直が明けて自宅に戻るなり、夕方近くまで寝ていた。目が覚めて時計を見ると15時半になっていた。
起きてシャワーでも浴びようかと思っていたら、スマホからLINEの通知音が鳴った。LINEなら緊急性は低いと思い、後にしようかと思ったが、念の為に通知を表示させると彼からだった。
LINEを開いて見ると『折り入って相談したい事があります。今日か明日の夜、お時間の都合は付きますか?』とあった。
(折り入って相談……ってなんだ?例の件とは別の事か?しかも今日か明日って事は、何か急ぎの案件でも出来たのか?)
俺はどうしようか悩んで『今日の方が都合が良いです』と、返信をした。するとすぐに『では今日の19時に、いつものお店でお待ちしております』と、返って来た。
(これは本当に急ぎっぽい。まぁ…どっちにしろ、面倒な事にさえならなければいいけど)という思いは、数時間後に呆気なく打ち砕かれる事になる。
俺はのそのそとベッドから出ると、大きく伸びをして、シャワーを浴びる為にバスルームへと行った。
シャワーを浴びながら(早目に出て本屋にでも寄るか…灯里が勧めてくれた本も読んでみたいし)と、頭の中で予定を考えると、シャワーを止めてバスルームを後にした。
時計を見ると17時半を過ぎていて、慌てて髪をドライヤーで乾かして結いた。適当に服を選んで着る。その上にジャケットを羽織り、ポケットにスマホを入れると、鞄を持って家を出た。
指定された店まで電車で30分くらいだが、本屋に寄る時間はなさそうだと思った。
(まぁ、本屋なら明日でも行けるしな)と諦めた。
マンションから駅に行く途中で、何度か信号待ちを強いられた挙げ句、救急車が通過するのを待っていたら、乗るハズだった電車に乗り損ねた。
次の電車に乗ると(出鼻をくじかれた気分…)と思った。そして、暗くなって行く窓の外の景色を、ただぼんやりと眺めた。
時間ギリギリに店に着くと、彼は既に来ていて、いつもの様にカウンター席にいた。俺は真っ直ぐに彼の元へ行き、バーテンに飲み物を頼んでから隣の席に座った。
「こんばんは、お待たせしてすみません」
「いえ、時間通りですよ」
彼に声を掛けると、如何にも彼らしい返事が返ってきた。俺はふと、彼の飲み物が手付かずにいる事に気付いた。目の前に飲み物が置かれると、どちらかともなくグラスを合わせた。
「先に飲んでても良かったのに」と言うと、彼は「どうせなら乾杯してからの方がいいでしょう?」と、事もなげに言った。
まるであの日「男もなかなか良いものでしょう?」と、言い放った時のようだった。この人にとったら、どっちも取るに足らない事なんだろう。
(だけど、俺には充分過ぎる程悩ましい事なんだけどね!いやでもほんと…最近なんでこの人の事ばっかり考え……あぁ、灯里が言ってたのはこの事か。とは言え…どうしたらいいのか解らないから、困ってる訳であって、こうして考えてる訳だよ)
「早速ですが、お話をしてもいいですか?」
「どうぞ」
「単刀直入に言います。元宮先生に、青葉くんと…同棲…同居をして欲しいんです」
「は?えっと…同居って言い直してましたけど、普通に考えて同棲ですよね?」
「言い方と受け止め方の違いです。なので、両方言いました」
(そういう事じゃないんだけど…)
「でもまだ付き合って二ヶ月ですよ?いや、時間の問題じゃないか。でも…う〜ん……灯里が承諾しないと思いますよ」
「元宮先生の事ですから…青葉くんの事を考えて、同棲には同意しないでしょう。だからこうして、貴方にお願いしてるんです」
(結果が解っているのに、頼みにきたの?!)
「何かあったんですか?」
「このままだと…その…青葉くんがですね……」
「本條さんがどうかしたんですか~?」
珍しく歯切れの悪い言い方をする彼に、俺はわざと軽い口調で言ってみた。
「このままだと、青葉くんがストーカーになってしまいかねない!というか、暴走して何をしでかすか解らないんですよっ!」
「はい?」
俺は、彼が言っていることの半分も理解が出来なかった。というより、どうしてそういう思考に至ったのかが解らない。
「ちょっと落ち着いて下さい。相談てそれですか?」
「あ…これはお願いです。相談したい事はまた別の話です。一先ず今話した事…お願い出来ませんか?」
「え~と…そもそも、どうして本條さんがストーカーになるとか、暴走するという話になるんですか?」
「それがですね…」と前置きをして、彼は本條さんとの会話から感じたという、本條さんの話し出した。
彼の話を聞きながら、俺は(やっぱり面倒な事になった!)と思った。だが彼の話を聴いているうちに少しづつだが、何となく理解と納得がいってしまった自分がいた。
「いや〜初恋あるあると言うか…青春ですね。いや、とっくに成人してるんだから青春ではないのか?」
「え?あるあるですか?」と不思議そうに言う彼に、俺はつい「え?あるあるでしょ?」と言ってしまった。
彼がいつから恋愛に価値を見出さなくなったのかは知らないが、少なくとも…今の彼には解らないであろう初恋ならではの恋愛感情…。
「初恋に限りませんけど、学生時代なんかに恋人が出来ると、そういう思考になりがちというか…ありませんでした?」
「あ…実は、昔…というか…ある時期から、大学に入る前くらいまでの記憶がないんです……」
「は?」と、思わず間抜けな返事をしてしまって、慌てて「あ、そうなんですか、大変ですね…」と医者にあるまじき、訳の解らない事を口走ってしまった。
「大変……なんですかね……」
そう呟く様に言った彼の顔が曇り、目が何処か遠くを見ている様に見えた。
「そりゃあ大変でしょ?!記憶が失くなった理由は知りません。けど、記憶が失くなるという事は、有り体に言えば、良い事も悪い事も全て失くなるという事ですよ?!ん〜例えばそうだな…必死に勉強したのにも関わらず、記憶を失くした所為で赤点取っちゃった!単位ヤバい!とか…ね?大変でしょう?」
「ふふ…実に具体的な例ですね」
「ついこの間、実習生さん達とテストの話をしてたので…それを思い出して例えてしまいました」
「あ、実体験ではないんですね」
可笑しそうに言う彼の表情は、いつも通りに戻っていた。それどころか、重い話をした後とは思えないくらいご機嫌に見えた。
(ん~本気で解らんな…この人。別に嘘を吐いている訳じゃないんだろうけど…いや、別に本音を曝け出す必要もないんだけど…)
「赤点ギリギリだったって事はありました。その時は灯里に、めちゃくちゃ怒られましたよ」
「昔から元宮先生には弱いんですね……」
急に声が小さくなったので、ふと彼の顔を見ると、再び沈んだ様な曇った表情をしていた。
(えぇ〜急に何?俺なんか変な事言ったか?)
「え〜だってアイツ、あぁ見えて空手やってたんですよ。しかもあと少しで黒帯だ〜、という所までいってたんです。けど、大学受験に専念するからって、アッサリ辞めたんですよね」
「元宮先生と空手……どうも想像し難いですね…。でも割り切り方は、とても先生らしいです」
「そうでしょうね。俺は柔道やってましたけど、それでもアイツには勝てなかった」
「それは異種格闘技戦…的なやつですか?」
「まぁ…そんな感じですね。決して手加減していたとか、アイツが小柄だからって舐めてた訳じゃないんです。単にアイツが強かったんですよ…」
我が家には習い事で『何か一つ武芸をやる事』という、謎の決まりがあった。恐らく…灯里のその見た目から、その身を案じた両親が考えた事なんだろう。
兄貴は剣道、俺は柔道、灯里は空手を選んだ。それぞれが、違う道を選んだのには理由があった。
各自が習って来た事を、それぞれに教える…といった、言わば復習を兼ねた練習の様なものだった。なので俺も、真似事よりは幾分、剣道も空手も出来る。
「理由……聞かないんですね?」
「ん?理由…あぁ…記憶を失くした理由ですか?」
「そうです」
「職業柄、気になりますし知りたいとは思います…。でも今日のメインはそれではないでしょ?」
「そうですね……」
「それに…そういう大切な事は、この人になら話してもいいという相手にだけに、話した方がいいです」
「そういうものですか…?」
首を傾げながら聞くその顔は、まだ少し曇っているものの、さっきよりは暗い感じはしない。
「診察ではないですし…単に無理強いはしたくないだけです。でも…俺で良ければ、いつでも話してくれて構わないですよ」
「ありがとうございます」
「それより、本條さんの話をしないとダメじゃないですか?」
「そうですね。えぇっと…先程も言いましたが、これからの計画の為にも青葉くんには、大人しくしていて欲しいんですよ」
「まぁ、そうですよね。その為に俺達もこうして、頑張ってる訳ですから、下手に動かれてすっぱ抜かれでもしたら、目も当てられません」
俺的には…恋愛は付き合うまでと、付き合ってからの数ヶ月が一番楽しいと思う。だから、本條さんの気持ちも解らなくもない。
しかも本條さんにとっては初めての恋愛で、初めての恋人だ。一分一秒でも長く一緒に居たい、と思うのは別に悪い事ではなく普通の事だろう。
とはいっても、芸能人と一般人では会う時間も限られる。特に本條さんは、まだ仕事量を軽減しているとはいえ、売れっ子の超有名な俳優だ。
灯里も仕事柄、当直があったりするから時間はそこそこ不規則だ。特に今は新しい取り組みに向けて、先陣を切る勢いで仕事と勉強、講習会やら研修会やらへ足を運んでいる。
(一緒に居たい理由が単なる欲求不満から…ではなさそうなのは安心した。それにしても…そうか…)
好きだから会う時間を増やしたいし、一緒に居たいと思う。それはどこのカップルを見ていても、聴いていてもそうだと思う。
だがその好きという思いも、度を越して一歩間違えれば、立派なDVになりかねない。DVは暴力という物理だけに限らない。言葉も立派な暴力になり得る。
束縛を始めたり、過干渉を始めたり、挙句の果てに交友関係や、仕事に対しても口を挟み始める。最近多くみられるデートDVがそれだ。
でも彼が心配しているのは、そこじゃない。けど話を聴いた上で俺からすれば、その可能性は全く無い訳じゃないと感じた。
(まぁでも、本條さんに限ってないと思うけどね。ただ、本條さんの立場を考えるなら、勝手に灯里に会いに行くって時点でアウト。だからってまた、ストレス溜め込んで、身体を壊したりするのもアウト。でもそれ以上に、灯里を説得して同棲させるって事が一番…アウト…というより、ハードルが高い)
「他に方法ないんですか?」
「休みとカウンセリングを含めた、月に六回の時間を作り出すのがやっとです。しかもこれから、少しづつ仕事量が増えます」
「あ〜、条件付きですが許可しましたね」
「仕事が増える事は、この業界では有難い事です。それは青葉くんも喜んでました」
「役者の仕事好きですもんね」
「そうです。しかしこのままでは…ストーカーになりかねない。挙句の果てに仕事を辞めると言い出しかねない。そんな気もするんですよ…」
そう言われるとそんな気がしなくもない。本條さんの事だから、どちらかを選べと言われたら灯里を選ぶだろう。
(それを言ったら灯里も……いや、アイツは仕事を選びそうだな…)
「でも、灯里がいますからね…仕事を辞める事はないと思いますよ。灯里がそうさせないでしょうから。かといって、灯里が仕事を辞めて、大人しく専業主夫になるとも思えませんけどね」
「つまりそれは、どうやっても同棲はしないだろう…と言いたいんですか?」
「そうですね…いや、話してみないと解りませんけどね。今までの交際とは違うようですし…。それでもまだ、拭いきれない怖さはあると思います」
灯里の中には未だ、失う事への恐怖が根底にある気がする。一度植え付けられたトラウマは、そう簡単には消えて失くならない。
向き合う事で改善され、痛みが軽減されて、心が落ち着いた様にみえても。それでもふとした何かの拍子で、顔を表すのがトラウマだ。
(もし次に何かあったら、その時はもう…今度こそ、二度と立ち直れないだろうな…。いや、それはちょっと侮り過ぎか?ん〜、今のアイツなら、何度でも這い上がり、立ち上がる気もする…ってこれはちょっと、買い被り過ぎかな〜)
そんな事を考えていたら、不意に彼がボソッと「本当に…」と呟いて黙ってしまった。俺は(え、なにが?)と思いながらも、彼が何か話し出すのを黙って待った。
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