嗜好品には手間暇をかけて

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夕食に期待しながら玄関の鍵を開ける。お昼のお弁当のメインは鶏肉のネギ塩レモンがけだったから、夜はお魚だと推測。さて、どんな香りが私を迎えてくれるのか。 わくわくしながら入った玄関は真っ暗だった。 いつもなら帰ってくる時間に合わせて電気をつけておいてくれるのに。リビングに続くドアの隙間からも光は漏れていないし、物音もしない。なんだか空気がひどく寒々しい。胸いっぱいに空気を吸っても、無臭の空気が肺を冷やすだけ。  住み慣れた部屋が何故か薄気味悪く感じて、振り払うように早足で洗面所に向かった。手洗いうがいをして、生姜紅茶でも飲めばこの寒気も消えるだろう。そう思って洗面所の引き戸に手をかけると、中から光がこぼれ出す。  なんだ、お風呂に入ってただけか。  でも、戸が半分開いたところで思う。  シャワーの音もお湯が揺れる音も聞こえてこないけれど、一体彼はお風呂場で何をしているの?  慣性の法則に従い、手は扉を開ききる。すると驚いたように目を見開く彼と目があった。驚愕に顔が染まっていたのは一瞬で、次の瞬間にはうっそりとした笑みに変化する。 「ナイスタイミング!ちょうど準備が終わったところだったんだ」 奥を見ると、お風呂場の物干し竿がまるで重たいものをぶら下げるかのように補強され、そこに縄が吊り下げられている。 「手、洗いに来たんじゃないの?早く洗っちゃいな」 そうだった、と思いだし、洗面所に足を踏み入れる。そして彼と距離が近づいて、気づいた。 気がついてしまった。  何で手に包丁を握っているの?  私の目線に気がついて、彼はバレちゃった、と言って頬をかく。そしておいでおいでと私を手招いた。  けれど私はじりじりと後ずさった。わからない。わからないけれど嫌な予感がして、冷や汗が止まらなくて、この場から離れたくてたまらない。  いつまでも来ない私にしびれを切らした彼がこっちに向かってくる。慌てて走ろうとして身を翻すも、腕をくんっと引かれて抱き留められた。 「逃げちゃ駄目だよ。こんなに手間暇かけたんだから」 耳元に囁かれ、咄嗟に彼の顔を見ようと右上を仰ぎ見た。  目に映ったのは振り上げられた包丁。次の瞬間、ガンっと頭に鈍い衝撃が走る。視界が暗転する直前、首に包丁が当てられた気がした。  ふと、昼休みに調べたことを思い出す。 鹿の血抜きは失神させてから頸動脈を切って失血死させるんだって。
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