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「まだピアノ弾いてるの?」
呆れたように呟いた美空の言葉は、音楽室に響いていた長調の伸びやかな調べを遮断した。
「なんだよ、いいところだったのに」
「だって、もう下校時間の10分前よ。このままアンタ見逃したら私が怒られるじゃない」
「カイチョーサマは大変だねぇ」
「どこかのピアノ馬鹿のせいでね。で、また新しい曲作ってるの?」
「うん。明日までの課題のヤツ」
「なんで前もってやらないのよ……」
「普通科の中でも屈指のエリートのお前とは違うんだよ」
俺たちが通う高校には普通科の他に、音楽科、美術科の芸術系二学科がある。そのうちの音楽科ピアノ専攻に在籍する俺は、学期末テスト代わりの作曲課題を制作している最中だった。
「あともうちょっとで終わるから、先帰ってていいよ」
「嫌よ、アンタのあとちょっとが信用できるものですか。そう言って最低一時間はかかるじゃない」
「酷いなぁ。たしかにそうだけど」
「……先生の許可はもう取ったから、好きにしなさいよ」
ただし、私がここに居るのが条件だからね。我慢しなさいよ。
そう言いながら俺が座っているピアノの椅子の横に自分が座る用の椅子を持ってきてちょこんと座った。
「前から思ってたけど、ピアノ弾いてるの見るのって楽しいの?」
「私は楽しいわよ。ピアノ弾いてる手って動きが綺麗だから」
まっすぐに俺の手を見つめながら言われたその言葉に、思わず顔が赤くなる。それを隠したくてピアノに向き直り、右手をピアノに乗せてひとつ息を吐く。トン、と鳴らしたド、ミ、ソの和音が気持ち良い。
「あ」
「ん? どうしたの?」
突然声を出した俺に驚いた美空が、キョトンと首を傾げるのが視界の端に写った。
そんな美空を置き去りにぐちゃぐちゃと音符と符号が書かれたページを一枚めくり、五線だけが書かれたページを開いてペンを持つ。
いいことを思いついた。
そう言ったら、どんな曲? と楽しそうに問いかける美空の姿に抱いた愛おしいという感情をなんとか押しとどめて、俺はペンを走らせた。
美空は目鼻立ちがはっきりしているのに化粧っ気は無くて、白い肌に艶やかな黒髪はいつ見ても綺麗だと思う。
何に対してもまっすぐに言葉をぶつける姿は、他の人から見ればキツイ印象を受けるとも聞くが、俺はそれがとても清々くて、美しいものだと思った。
けど、そんなこと素直に言えるほど、俺は美しい人間じゃない。
だから、託すんだ。
「……ちょっと、何書いてるの?」
俺の手元を覗いてくる美空に譜面からペンを離してよく見えるようにしてやった。
さて、どんな反応が返ってくるかな。
「……なに、この落書き」
「えっ……うーん、迷走したかな」
「迷走もいいところでしょ。絵まで書いて」
そう言いながら譜面台に置いてある五線譜ノートを手に取って、バシンと頭を叩かれた。捨て台詞に「馬鹿」とは全く酷いものだ。我ながら天才的な発想力だったと思うんだけどな。
譜面に書かれたのは、左からラ、ミ、ドの音符と電話の絵。ラの下には独、ミとドと電話の絵の下には英というヒントまでやったのに。
そうやって音楽科の友人に愚痴を零したら「分かるわけないだろピアノ馬鹿」と罵られた。
ラのドイツ語音名はA、ミとドの英語音名はそれぞれEとC、そして電話は英語でTEL。
こんなの、誰でもわかるよな?
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