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「俺のアパートの前、桜が綺麗なんだよね。今から見に来ない?」
会社の飲み会の帰り際、彼が私に耳打ちをした。
誰もかれもが酔っ払い。もちろん私も酔っ払い。何人かで行くのかな、なんて思って、軽い気持ちで頷いた。
二次会へ行く者、帰る者、三々五々に散らばって、タクシーに乗り込む。私は彼に引っ張られ、同じタクシーにふたりで乗り込んだ。
彼が運転手さんに行先を告げるのを、ぼんやりした頭で聞いていた。
(あれ?もしかして私だけ?)
流れていく景色を見ながら、そう言えば彼とふたりきりになったことないな、と思う。
二十代の社内メンバー、五、六人で飲みに行くことは多々ある。彼もその中のひとりだし、仲は良い。でも、連絡先は知らない。彼は確か私の三つ上くらい?
一年ほど前、私と同じ時期に転勤してきた。私は初めての一人暮らしだけど、彼は大学時代から一人暮らしだと言っていたっけ。
たまに混ざる鹿児島訛りのイントネーションが、なんだか親しみやすくて。
いつも洗剤の良い香りがして、一人暮らしなのにしっかりしてるな、おおざっぱな私とは大違いだって――
そこまで考えたところで、目的地に着いたらしい。コンビニの駐車場だった。ふたりでタクシーを降りた。
「俺のアパート、ここから歩いてすぐだから。何か買う?飲みなおす?」
彼の問いに、
「ほか、誰か来る?」
酔いの醒めてきた私は、単刀直入に聞いた。
彼は何もこたえない。お酒コーナーへとすたすた歩き、ついてきた私に振り返って言った。
「俺ビール。梅酒でしょ?」
「うん、私、梅酒」
(そっか。ふたりきりか、そっか)
こたえながら、足元がふわふわした。
さっきタクシー代払ってもらったから、とレジでお金を出そうとする私に「俺の今日の占い、誰かに梅酒を買ったらいいことあるって言ってたから」なんて適当なことを言って、彼が会計を済ませた。
ふたり、コンビニの明かりを背に歩きだす。
ビールと梅酒、チータラの入ったビニール袋が、彼の歩調に合わせてカサカサと音を立てる。
街灯もまばらな小道は暗くしんとしていて、なんとなく、お互い何も言わずにとぼとぼ歩いた。
「ここ。俺のアパート」
言われて見上げた先に、桜の木が二本佇んでいた。大きく広がったどっしりした一本と、控えめだけどバランス良く枝を伸ばした一本。どちらも満開だった。
夜の濃さの中、街灯に照らされた桜はなるほど、綺麗。
二本、というのもまたよかった。寂しくない。
しばし眺めたあと、
「いいね、綺麗だね」
と私。
「うん、ほんとに綺麗だから、見せたくて。
っていうのはやっぱり口実で……部屋、あがっていきませんか?」
言うなり耳まで真っ赤になった彼の顔をまじまじと見つめた。
仲間内では『頼れるお兄さん』な彼の、見たことのない顔。
もっと近くで見たくなって、言った。
「今日、桜を一緒に見たあと部屋に誘ってくる人が彼氏になるって言ってた。私の占い」
お互い、腕時計を見た。
今日が終わるまであと3分。
彼が私の手を取って、アパートのほうへと駆け出す。
彼と私の始まりを、二本の桜が見ていた。
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