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一話
英国有数の名門貴族、スタンホープ伯爵邸。
中央に屹立する三階建ての主館は、羽ばたく準備をする水鳥の優雅さで左右対称の翼棟を従え、堂々たる威容を誇示する。
芝生を刈りこんだ敷地にはよく剪定された庭木が植えられ、春の日差しに翼をぬくめた小鳥の群れが麗らかに囀っていた。
そんな中、質素なシャツにサスペンダー付きのズボンを合わせた赤毛の少年が屋敷をめざす。
「オリバー!」
玲瓏と澄んだボーイソプラノに振り向けば、逆光に縁取られた小柄な影が駆け寄ってきた。傍らには毛並みの良い大型犬が付き添っている。
天使の輪を冠した艶やかな茶髪、聡明な知性を宿す鳶色の瞳、丁寧に漉したミルク色の肌。
上等な仕立てのドレスシャツに負けない、小さな貴公子然とした美少年がそこにいた。
一挙手一投足にえもいえぬ気品が滲み出す茶髪の少年に呼び止められ、赤毛の少年は眩げに目を眇める。
「エドガー」
「どこ行くの?午後は一緒に写生しようって約束したろ」
「旦那様に呼ばれてるんだ」
「お父様に?なんで」
「わからない」
赤毛の少年は日陰にいた。茶髪の少年は日向にいた。明と暗の境界線が同い年の二人を分け隔てる。
「そっか。大事な用なら仕方ないね」
誤魔化すオリバーを疑うそぶりもなく、本心から残念そうに俯く。胸には愛用の画帳を抱いていた。
隣でうるさく吠えたてる犬は、去年の誕生日に父親から贈られたらしい。
名前の由来はナーサリーライムの登場人物。ミートパイの切れ端が好物だから、というのが命名の理由だそうだ。
畜生の分際で嘗てのオリバーより余っ程上等なものを食べている。
「ワンワン!」
「吠えるなジョージィ」
「ワンワン!」
「いい加減にしないと怒るぞジョージィ・ポージィ!」
「クゥン」
エドガーが声を荒げ叱責するや、股の間にしっぽを巻き込んで甘えるように鳴く。
オリバーはジョージィ・ポージィが大嫌いだ。ご主人様に媚びを売り、みじめったらしく生き恥さらしている所がだれかさんそっくりだから。
しかも屋敷の住人の中で自分にだけ吠えるときた。オリバーの体の隅々に染み付いた、イーストエンドのドブの匂いがわかるのだろうか。
エドガーが顔を上げる。
「すぐ戻ってこれるだろ」
「伯爵次第だな」
「あっちで待ってるから早く来てね、きっとだよ、約束だよ」
「……行けたら行く」
地面をちっぽけな蟻が這っている。エドガーは新品の革靴を履いていた。オリバーはエドガーのお下がりを与えられた。蟻の行列はエドガーの方へ行かず、オリバーの靴を乗り越えていく。
厚かましく。
図々しく。
ちっぽけな虫けらの分際で、貴族と平民の違いがわかるのか。
胸の内にどす黒く凶暴な感情が湧きいで、エドガーにばれないように蟻を踏み潰す。念入りに踏み躙る。
靴裏をどかせば黒いシミが地面にへばり付き、ほんの少し留飲が下がった。
「忘れないでね」
一方的に言い置いて走りだし、途中で振り返りざま手を振る。
仕方なく振り返し、今度こそ遠く駆け去る背中を見送り、重たい足を引きずり屋敷へ赴く。
「おいでジョージィ・ポージィ!」
吠え声に合わせ弾ける笑い。
ポーチをくぐる間際に顧みれば、エドガーが健やかな光を浴び、無邪気に犬と戯れていた。
「あはは、くすぐったいよ、なめるなって。餌はさっきやっただろ、ホントに食いしん坊だな」
じゃれ付く犬に押し倒され、芝生に仰のけたエドガーが黄金に輝く毛をなで回す。
それ自体が一幅の絵のように美しい光景。
ここに来てから閉ざした心に強烈な嫉妬と羨望が燻り、またもや不感症的に冷めていく。
主館のエントランスホールから続く大理石の階段を上り、伯爵の居室の扉を叩く。
「ただ今参りました」
「入れ」
注意深くノブを捻り入室。
窓辺に伯爵が立っていた。こちらに背を向け、ゆったり寛いだ様子で後ろ手を組んでいる。
「遅い」
「申し訳ありません、エドガー様と遊ぶ約束をしていたので」
「言い訳するな」
二人きりの時はお互い呼び捨てだが、伯爵の前では必ず「様」を付けて呼ぶ。そうしなければ折檻をうける。
伯爵はまだ振り向かない。
オリバーは扉の前に立ち尽くし、所在なげに俯いている。
「あの……」
「どうした?早く来い」
「わかりました」
室内に敷き詰められた毛足の長い絨毯を踏み締め、伯爵のすぐ背後に赴く。
「止まれ」
言うとおりにする。
漸く振り返った伯爵が、帳の下りたベッドの方に顎をしゃくる。
「喜べ。アレをやる」
自分に贈り物?
祝日でもないのに?
エドガーと間違えてやしないか?
どういう風の吹き回しだろうと怪しみ、ベッドに視線をやって固まる。
そこに乗せられていたのは繊細なレースを縫い込んだ、女物のコルセットだった。
「アレを、ですか。でも」
「不服か」
「いえ……」
「どうした、不満があるなら言ってみろ」
「滅相もありません……」
消え入りそうな声で返す。
コルセットの腰部分は極端にくびれていた。輪郭に骨格を矯正する鯨髭が仕込まれているのだ。
亡き母を含む娼館の女たちが着脱するのは腐るほど見てきたが、当然ながら自分が着た経験はない。
当たり前だ。
オリバーは歴とした男だ。
男なのに。
「着るんですか。俺が」
伯爵が頷く。
肌に視線が突き刺さる。
オリバーは覚悟を決めた。生唾を飲んでベッドに接近、伯爵が見ている前でのろのろ服を脱ぐ。
刹那、衝撃が走った。
「ッ、」
「もたもたするな」
鞭でオリバーの臀を打擲し催促する。そこならみみず腫れができてもエドガーは気付かない。
脱いだ上着と肌着をベッドに畳んで置き、砂時計のシルエットを描くコルセットを纏い、首をねじって背面の紐を手繰り、胴回りを絞っていく。
「手伝ってやる」
「大丈夫、一人でできます」
「歯向かうのか」
「いえ……」
太く固い指が素肌をねちっこく這い回り、かと思えば乳首を摘まんで引っ張り、筒部分に圧をかける。
「ぁ、ぅぐ」
仰け反る背に汗を浮かべて前傾、臓腑を引き絞る苦痛にもがく。
「顔を上げろ」
耳裏で囁き、オリバーの顎を掴んで前を向かせる。
馬蹄形に区切られたガラスに映りこんでいたのは、清楚な純白のコルセットを着せられ、一糸纏わぬ下半身をさらす少年だった。
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