スナックすみれ

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 ママは水割りを飲みながら、専務と一緒にカウンター奥のモニターに向かっていた。カランというベルの音で、兄妹みたいにシンクロしながら振りかえった。 「ああ、来た。いらっしゃい」  いつものハスキーな声で言う。カラオケの画面は昭和歌謡曲をやっていた。ちょうど歌い終えたらしく専務がマイクを置いた。知らない曲だ、と言ってカウンターにかける。 「今日は早いのね」  ボトルと水割りのセットを出してから、ママがカウンターの向こうで何かをよそっている。 「まあね、今日はまたいい(トコ)見つけたんでさ。気合入ってんの」 「じゃあ景気づけに」  乾杯した。さっき作ったというママの地元の煮物が出てきた。冷えた山芋もうまいものだ。ママの地元ってどこだったっけ。3か月くらい前に初めてこの店に来たときに聞いたが忘れてしまった。  ママは年齢不詳だ。今は派手な衣装と化粧と、隠し切れない皺が年代物になっているが、話し方に品があって10代20代の頃は相当美人だったのだろうと思う。年が離れたこういうママのような女を構うのも俺の好みだ。  このスナックには月に2,3回くらい立ち寄る。半年前に転職でこの街に引っ越してきた俺は、手っ取り早く飲める店をあちこち探した。  そしてこの店を見つけた。看板を見ていた俺に、ちょうど買い物に出ようとしていたママが声をかけてきた。会社帰りに寄るのに都合がよく、なにより風俗街に近い。『すみれ』という名前も気に入った。  それ以来鬱憤がたまると一人でふらりと出かけ、ママに愚痴をぶつけるようになった。ストレス解消だ。店を出た後は風俗店で憂さ晴らしをする。 「じゃ、私はこれで」  しばらくして白髪の専務は勘定と言った。背広とパンパンになったセカンドバッグを小脇に抱える。専務は俺が店に入るとしばらくは黙って一人でグラスを傾け、そして適当なところで帰っていく。  いつ来ても定位置の一番奥に座っているから、毎日のように来ているのだろう。年齢も何をしているおっさんかも不明だ。  ママには専務と呼ばれている。古くからの常連らしい。おそらくまだママが若くてイケイケだった頃の疑似恋愛を、今も思い出して楽しんでいる。そんな感じだった。愛想は良くない。  気にしなくていいよ、そういう人だから、とママは笑った。少年みたいなの。うへ、とだけ返した。 「さて、行くかな」  グラスで2杯ほど水割りを呷り、俺は勘定と言った。 「あら、まだ早いんじゃない。今日はやけにあせって」 「溜まってるんだ」  ストレートねえとママが笑う。まあそれもあるがどっちもだ。  今日は会社でロクなことがなかった。ここのところ嫌味が鼻につく上司の詰問めいた説教が今日はやたらとしつこかった。危うく胸元にぶら下がっているストライプのタイを掴みそうになったが、半年前の二の舞は避けたかった。高ぶった気持ちを抑えて早々に会社を出たのだ。こういう日はママのところで一杯引っ掛けて、そのまま女を抱きに行くに限る。 「いつも夜の女の子ばかりじゃお金が持たないでしょ? 恋人はいないの」 「ママも、田舎のおふくろみたいなこと言うなって」 「あら、おふくろみたいって嬉しいわ。おばあちゃんじゃなくて」  ママがふざけて右手の甲で口を押えてしなを作る。 「夜の女も、まあそれはそれで楽しみはあってさ」  俺はいったん手にしたトレンチコートを脇の椅子に置く。肘をついてにやりとママの顔を見る。  海千山千のママの顔を見ていると、あっと驚かせたくなる。悪い癖だと自分でも分かっている。酔いが回るとたまにブレーキが利かない。酸いも甘いも知ったような女の顔を困らせたくなるのだ。それが楽しい。 「俺には人と違う特殊な嗅覚があるようでね。たくさんいる風俗嬢の中で俺に夢中になって惚れこんでしまう子を見つけ出す能力がある」 「すごいんだあ」 「茶化すなよ。本当なんだって」  初めて風俗店に行った二十歳の時から、俺にはなぜかそういう特殊な嗅覚があった。仕事の顔を忘れて自分にのめり込んでくる気配が匂いで分かる。そうと分かった女はそれから俺にとって格好のターゲットになる。ママが驚きつつも興味ありげな顔をしているので少し得意になって喋ってしまった。 「そういう子を手なずけたら、あとはプライベートの時に呼びつけて散々いたぶってやるのさ。今まで金を払った分、徹底的に元を取るまで遊ばせてもらう。楽しいぜ」 「恐ろしいこと言うわねえ。でも気をつけてね、ついこの間ニュースになってたけど、そこの風俗の子がさ……」  そこまで言ってママの顔が固まった。ほんの少し真顔になってから思い切り笑って「ああ怖い」と言う。「冗談はやめてったら」  俺はあははと笑って見せる。ママが言っているのは、1週間前に隣の花園町のラブホテルで20代のソープ嬢が殺害されたという事件だ。紐で縛られ折檻された跡があるとニュースは伝えていた。まだ犯人は捕まっていない。 「あれやったの、俺だから」 「ええ?」 「って言ったらどうする?」 「もう、そんなびっくりするようなこと言わないの。今のは冗談にならないわよ」 「なんでもいいさ」  そう言ってひとつ息をつく。昼間から募ったフラストレーションが、水割りで余計に膨張していた。ママに向けた暴力めいた言葉の攻撃が心地よくて俺は興奮していた。 「じゃあ、風俗に行く」  そう言って席を立った。あんまり羽目をはずしちゃダメよ。そのママの声を背中に俺は右手を振った。  それから1週間ほどして、俺はまたスナックすみれに足を向けた。今日も大分ストレスがたまっている。濃い水割りが欲しかった。  古びれた雑居ビルの2階、薄暗いコンクリの通路の両側に板チョコのような扉が並び、突き当りの扉の前で『すみれ』の看板はなぜか消えていた。そしてその看板の前では専務がセカンドバッグを抱えていつものスーツ姿で立っている。おやと思って近づく。 「なんだよ、今日は休みかよ」  俺は専務と話したことが無い。わざとらしくそう言って専務に背を向けると、専務は背後で「ちょっと今日は開店が遅れているらしいですね。もう少しで開くようですが」と言った。  俺は会話などしていない素振りで腕時計を覗き、なんだよじゃあ行くかな、と呟きつつウロウロする。そう言いながら今日も鬱憤が溜まって仕方なかった。早くあのママの顔に言葉をぶつけてやらないと気が済まない。それにウィスキーも欲していた。  やがて専務が木製の扉をトントンとノックする音が聞こえ、振り返ると扉がゆっくりと開いた。化粧をしたママが顔を出し、俺と目が合う。なんだよ、いるんじゃないかよ。 「ごめんね」  ママは笑って俺を招き入れる。中に身体を入れた途端、ワイシャツの袖を強く引っ張られた。勢いよく扉が閉まる音がした。店内は明かりが点いていない。ぼんやりとしたカウンターが見えるが、すぐに視界が歪んだ。後頭部に激痛が走って俺は意識を失った。  気が付くと俺は店にひとつだけあるボックス席のソファに寝ころんでいた。状況を理解する間もなくすぐに脂汗にまみれた両目を瞬いた。後頭部が痛い。身体をよじると両手が後ろ手に縛られている。口にも手拭いのようなものが当てられて耳の後ろで縛ってあるようだ。うぐうと呻いた。声はわずかに出せる。  見上げるとママがいつものワンピース姿でカウンターの椅子にもたれている。店内には音楽も派手な明かりもない。ただカウンターの端にあるモニターだけが点いていた。画面には薄暗いコンクリの通路が映っている。 「ジンダイ リュウジだね」  ママが掠れた声で言った。光量を落としたスポットの下で、厚い化粧の顔は笑っていない。何が起こったのか理解できなかった。なぜママが俺の名前を知っているのか。この店で俺は名乗ったことはないし、どの店に入っても決して本名は名乗らない。 「ようやく見つけた。長かったわ」  ふと横を仰ぎ見ると、専務がセカンドバッグを抱えて立っている。いつもと変わらないようなぼんやりした表情でいるのが腹が立った。お前、つっ立ってないで助けろよ。 「私もね、できればあまりひどいことはしたくないの。だから正直に答えなさい」  ママはいつもと違う低い声でそう告げた。温かみのない声。俺は俯いた姿勢で顔を上げてスポットの逆光になったママの顔を見上げた。 「カガワ ユミという子を知っているか」 「――」  もう一度殴られたかのように頭に痛みが走る。ようやく事態を把握する。 「半年前にお前に殺された子だよ。私の娘だ」 「わ、悪かった」  俺は観念した。手拭いを嚙まされた口の端から涎をたらしながら必死で詫びた。そんなつもりではなかった。風俗店で知り合った。俺はいつまでも俺の思い描くお人形にならないユミを躾てやっただけだ。殺すつもりは無かった。 「許してくれ」  と泣いて懇願した。しらばっくれてどうにかなる状況ではなかった。ママの目にはどす黒い殺気が渦巻いていた。泣いて跪いてでも、許しを乞うしかない。 「ユミだけじゃない。ユミの前にお前はもう一人殺している。そしてつい先週殺された花園町のソープの子もお前の仕業だ」  ママは手にしたハンカチを握りつぶすようにして声を放った。「やっと探して見つけ出したのだ。私は許さない」  俺はそばにいる専務に顔を向けて泣きついた。助けてくれ、専務。そこで見てないで早く警察に連絡をしてくれ。自首する、全部白状するから早く縛めを解いてくれ。 「さて、どうしましょうか」  専務はいつもの朴訥としたような口調で初めて口を開き、そしてママを見て苦笑いをする。緊迫した空気に俺は押しつぶされそうになる。薄笑いをしている専務をまじまじと見つめ、この男は刑事なのではないかと気が付く。 「頼む、刑事さん。罪は償う。逃げないから助けてくれ」 「私は、刑事ではないですね」  その専務の声が冷たい。じゃあなんだ。まさかママの旦那か。一緒になって俺を裁こうというのか。 「白状すると、ただの会社役員です。まあ、ママのパトロンではありますがね」  そう言って専務は立ち尽くすママの肩を抱いてスツールに腰かけさせた。ママがハンカチで顔を覆う。 「普通の客です。ただちょいと変わった趣味を持っている」  そして傍らのセカンドバッグのファスナーを引っ張る。パンパンに張っていたセカンドバッグから小型の鉈を取り出す。 「こういう夜の店の明かりに、時々『害虫』が吸い寄せられるように飛んでくるんですが」  ゴトンという重い音でカウンターに鉈を置いたあと、針金、千枚通し、鑿、ペンチとあらゆる道具を取り出しては置いていく。 「そうした害虫を見つけだす嗅覚が私にはあるようでしてね。徹底的に痛めつけて、シツケてやるのが楽しいという困った趣味がありまして」  俺は息を飲んだ。専務は笑みを消さずにママに向かって頷く。ママも小さく頷いた。 「って言ったらどうします?」  暗い店内で、俺の意識が消えて行った。 (了)
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