あの日の夢の続きを

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「こんにちは」  ドアノブに鍵を差入れていたら、声をかけられた。一応は防犯を考えて、周りに人がいるときには鍵を開けないようにしているのだが、いつの間にいたのだろう。コンビニの袋を下げた男が人懐こい笑顔を浮かべてぺこりと頭を下げてくる。左耳に下がっているピアスがきらきらと揺れた。 「あの僕、隣に越してきた西です」  確かに数日前誰かが出入りしている気配はあった。 「ああ、どうも。……有馬です」 「よろしくお願いします。あ、ちょっと待っててもらえます?」 「はぁ」  西はドアを開けて玄関の中に入り、小さな包みを持ってすぐ出てきた。 「これ引っ越しのご挨拶にと思って。お茶です」 「どうも、ご丁寧に」  若そうに見えるのに、随分と古風なことをするものだ。おれは近所付き合いなどしたことがない。このアパートには随分長いこと住んでいるが、住人と出くわしたことがそもそも数えるほどしかない。大体、このアパートは今大部分が空室だったはずだ。 「じゃあ」  鍵を開けて中に入ろうとするが、西が呼び止めてくる。 「あの、すみません。今夜の、多分21時くらいになると思うんですけど、ちょっと大声出したり叫んだりすると思うんです。出来るだけご迷惑にならないようにとは思っています。特に何か事件とかそういったことではないので、無視していただけたらと思いまして」 「……はぁ」  夜に大声を出されても迷惑だが、わざわざ予告してくるということは、止めろと言っても仕方ないということだろう。何よりおれは、徹夜明けでやっと家に帰ってきたところだったので、兎に角早く解放されて寝たかった。 「わかりました。じゃあ」 「すいません。ご迷惑おかけします。ありがとうございます」  西が頭を下げてくるので、会釈をして部屋に入った。そして鞄や服を床に脱ぎ捨てて、西日が差し込む窓の近くに万年床に潜って泥のように眠った。  真っ暗な深海に真っ逆様に沈み込むようだった。何も音がしない、静寂。  だが微かに何か音が聞こえだす。  ーーやめてくれ。違うんだ。おれじゃない。違う。  ……来るな、やめろ……!  夢現に男の声がするのを聞いていたが、うわああっと絶叫が聞こえておれは目を覚ました。  カーテンを閉めていなかった窓の外はもうすっかり真っ暗で、街灯の光がぼんやりと見えている。  しばらくの沈黙の後、また話し声がする。そこでおれは、西が言っていたことを思い出した。枕元に置いていた携帯の画面を確認すると、確かに午後九時を少し過ぎたところだ。大声を出すと言っても友達を呼んでどんちゃん騒ぎでもするのかと思っていたので、まさか悲鳴が聞こえるとは思わなかった。確かにあの挨拶がなければ、今頃警察を呼ぶか悩んでいたかもしれない。今聞こえるのは普通の調子の声だ。 「一体なんなんだあの男は……」  ぼやきながら、安心してまた寝てしまった。次に目が醒めたのはもう明け方だった。  その後しばらく、西と会うことはなかった。そもそも家に帰ることも少なかった。久しぶりに帰るとドアポストに、今日もうるさくするかもしれないという旨のメモと一緒にお茶やお菓子なんかが入っていることがあった。夜に叫ぶという非常識なことをする割には、随分まめな男だ。  だからこそ、一体何をしているのかはよくわからなかった。  次に会ったときは、疾うに桜の花も散ってそろそろ初夏と呼んでも良いような気候になっていた。 「こんばんは」  昼間に眠っていて、腹が減って目が醒めたので何か買いに出ようと外に出たところだった。路地の砂利道のところで、西が縄跳びをしていた。半袖のTシャツが汗でびっしょり濡れて、絞れそうなほどだ。とは言え、声をかけられてすぐには西だと認識できなかった。髪の色が派手な金髪になっていたからだ。 「どうも」  返事をしつつ、鍵をかける。外に出ると空気が思いの外暑い。鍵をポロシャツの胸ポケットに入れる。  西は、おれの動向を見守っていた。多分、話を続けるべきか、縄跳びに戻ってよいのか考えあぐねていたのだと思う。Tシャツの胸元を摘んで揺らし、申し訳ばかりの空気を送っている。そうしている間にもインナーの黒い髪の毛からぽたぽたと汗が滴り落ちていた。目が合ったので、軽く頭を下げると向こうも下げてきたので、おれはそのままコンビニへ出かける。  最近日が出ている間に外を出歩くことが少なかったので、多少気分も良くなって散歩がてらゆっくりと歩く。近くの店舗に食べたい弁当がなかったことを理由に少し遠い方の店舗までそのまま歩いて行く程度には気分が良かった。たっぷり30分以上はかけて家へ戻ってくると、縄跳びが回るヒュンヒュンという音が聞こえてくる。まだやっているのか。所謂ボクサー跳びという跳び方で、なかなか見事だ。安定してずっと跳んでいる。そう言えば、細身な割に程よく筋肉もついている。学生にも思えないが、一体何をしている人間なのか。  おれが戻ってきたことに気がついて、西は縄跳びをやめ、笑顔で会釈してきた。そのまま跳び続けていても別に道を塞いでいるわけではないのだが、多少の圧迫感はある。気を遣える人間なのだろうということはよくわかる。アスファルトにも汗が垂れて、色が変わっていた。おれがのんびり歩き回っている間、ずっとやっていたのだろうか。もう暖かくて気持ち良いというレベルは越えている気温の中で。かなりストイックだ。  どうしておれがそんなことを思いついたのか、今考えても不思議だ。なにか、西に触発されたとでもいうのか。首元に巻いて縛っているタオルの端で額を拭っている西に、おれは手に下げていたビニール袋からスポーツドリンクのペットボトルを取り出した。 「よかったら、どうぞ」 「えっ」  西はあからさまに驚いた。おれの方から話しかけたことが意外だったのだろう。初めて会った時相当邪険な態度を取った自覚はある。度々いただきものをしているのに、礼も言ったことがなかったことを思い出す。 「いつも色々頂いているので」 「とんでもない、あれは、こちらがご迷惑をおかけしているので」 「いやまぁ。どうぞ」 「あっ、えっと」  笑顔を浮かべつつも受け取ろうか迷っている様子に、流石に聡くないおれでも感づくものがあった。 「嫌いでしたか」 「あの、そういうわけではないんですけど」  はにかむように笑って、言葉を継いだ。 「今、節制しているんです」 「ダイエットってこと?」 「そんな感じです」  スポーツドリンクの糖分を取るのも控えるレベルでダイエットをしているのか。どう見ても余分な脂肪がついている体には見えないのだが。 「なら、こっち」  一緒に買ってきていたミネラルウォーターのボトルを差し出すと、西は遠慮しようか悩むようにちょっと小首を傾げたが、 「ありがとうございます。お言葉に甘えます」  と受け取った。 「早速いただいても良いでしょうか」 「もちろん。どうぞ」  西はパキリと軽い音をたててキャップを開ける。喉の奥に流し込むように一気に半分ほど飲んで、うまいと小さく声をあげる。 「ずっとやってたの? 水も飲まずに?」 「水は時々飲んでました。中に入って、水道水を」  蛇口を捻って口を開ける動作をする。一階で部屋が目の前だからできることだろう。 「随分猛々しいんだね」  おれの言葉遣いが可笑しかったのか、あははと笑った。 「それとも金がないとか?」  ダイエットしているなら尚の事、ミネラル分が補給できるミネラルウォーターの方が良いはずだ。 「確かにお金もないですけど」  と言いながらにこにこしている。 「君は何してる人なの。スポーツマンとか?」  不躾に踏み込んだ質問をしたが、相変わらず人懐っこい笑みを顔に貼り付けたまま、ちょっとおれを窺うようにしながら言う。 「有馬さんは、お芝居って見たことありますか」 「えっ」  今度はおれが言い淀む番だった。 「あるけど」  そうすると西は嬉しそうな顔で、そうですか、と言った。 「ネット芝居もわかりますか。インターネット越しでリモート出演を合成して作る芝居」 「もしかして、君はネット俳優なんてやってるのか」 「はい」  またはにかむような表情で目を逸らした。 「つまり、君が夜に大声を出すっていうのはライブ配信に出演してたってことか」 「えっ、はい。有馬さんよくご存知なんですね」 「……そうか」  なるほど、合点がいった。ライブ配信ならみんなが見るゴールデンタイムにやるから、大抵は夜になる。リモート出演でも本気で芝居をするならある程度の大声は出す。 「どのプラットフォームでやってるの。おれも見たいから教えてくれる?」  西はきょとんとした。そしてまた笑顔になった。 「ありがとうございます。なんだかこういうの初めてでちょっと恥ずかしいです」    おれは西から教えられたサイトを検索する。ネットシアター・ストラウス。正直自分は使ったことがないし大手ではないが、思いの外サイトデザインはしっかりしていた。今日の20時からの演目、『お笑いスキャッター』のキャスト一覧に、見覚えのある顔写真があった。おそらくずっと使っているであろう、今より少し若い顔の西。名前は西倫之(のりゆき)と書いてある。本名かどうかはわからない。おれは千円のデジタルチケットを購入した。ヘッドホンをつないでURLをクリックする。時間になると、導入のBGMがかかり、海の画像が流れた。そこに上半身だけの合成で登場したのは、紛れもなく西だった。金髪で、用意された衣装なのか自前なのか学生服のようなものを着て、髪はきっちりセットされている。ピアスがじゃらじゃらついているのも印象的だった。  隣の部屋からくぐもった声がする。数秒遅れて、ヘッドホンから台詞が流れ出す。 『あの頃、おれたちは、明日があると思っていたんだ』  直に会話した時のハスキーボイスとは違い、少し甲高い少年のような声だ。ほぅ、とおれは思わず声に出す。こんな声も出せるのだ。ころころ変わる表情が印象的で、派手な恰好をしているけれど内面は純粋で、というのが話が進んでいくにつれわかっていく。全部で六人の出演者がいたが、西の演技力は群を抜いていた。怒りを表す時にはドスの効いた声で手を震わせ、嬉しい時にはぱっと破顔する。悲しい時と嬉しい時での泣きの演技が全く違ったことにも唸ってしまった。端役については出演者が兼任しており、西もメインの役以外に二役していたのだが、帽子を深く被って髪も表情も見えない状態で台詞を言っていたので、初めの内は西であることに気が付かなかった。よくよく耳を澄ませると隣でぼそぼそ話し声が聞こえるので気が付いたほどだ。こんなに声も雰囲気も変えられるものなのか。気づくとおれは腕組みをしたまま、画面に見入っていた。  何故こんな良い役者が埋もれているのだろう。そう思いはするが、よくあることでもある。実力だけでは売れない。寧ろ、実力が大して無くても運さえあれば売れることもある。それが悪いとも言わない。そういうものなのである。  おれは検索エンジンを開く。続いて、マネージャーにメールを入れた。三十分ほどで、資料が添付されたメールが返ってきた。それなりの量があったが、時間も忘れて読み耽る。  翌日、珍しくおれは家にいた。スケジュールを敢えて調整して、自宅で執筆をしていたのだ。  夕方頃になって隣でガチャガチャと扉を開く音がしたので、慌てて立ち上がる。外へ出た時には既に隣家の扉の前には誰もいなくなっていたので、迷わず呼び鈴を鳴らした。一人暮らしなのだしアポ無しの訪問は居留守を使われるかもしれないと思ったが、少しの間があって扉が開かれた。 「こんばんは。どうしたんですか」  西が驚いた顔を覗かせる。少し話したことはあるが、家に訪ねてくるような親しい間柄ではないのだ。無理もない。 「西くん、ちょっと時間あるかな。話したいことがあるんだけど」 「話、ですか」 「帰ってくる音がしたから来てみたんだ」 「ええと、弁当を買いに出ようかなと思ってたところで」  戸惑っているのはわかったが、おれは押し切る。 「じゃあ、そこのファミレスにでも行かないか。奢るから少し話そう」  かなりきょとんとしていたものの、西ははいと頷いた。  おれたちは今日も暑いね、もうすっかり夏ですね、などとつまらない世間話をしながら近くの店まで歩いていき、案内された席についてさっさと注文を済ませる。 「あの、お話って」  おずおずと小首を傾げて訊いてくる。 「うん。ごめんね急に。君のお芝居、見させてもらったよ」 「ありがとうございます」  ピアスをチャラチャラ言わせつつ、頭を下げる。下げ方が見た目に反してしっかりと深く下げてくるのが相変わらず、彼らしかった。 「それでね、西くんのことちょっと調べさせてもらった」 「……はい?」  怪訝そうな顔をする。それは尤もだが、おれは特に言い繕わず言葉を続ける。 「昔劇団光見にいたんだよね?」 「はい。そうです」 「客演も結構していて」 「……はい」 「『未来はその先』」  おれがそう言った途端、西の表情が翳ったように見えた。そこに、料理が運ばれてくる。 「どうぞ、食べて食べて」 「……いただきます」  西は手を合わせて言い、左手で箸を手に取る。だが、料理に箸をつけずそのまま俯き気味に言った。 「主演、決まってました」  かなり大手の、有名なシリーズで芝居を打っていたカンパニーの主演に抜擢された。かなり話題になった。それまで業界内では一部でそこそこ名が知れていた程度で、世間には知られていなかった役者。おれ自身、聞いたことがあったかもしれない、程度の名前だった。 「稽古も進んでたんだよね」 「はい」  そこで、単品で頼んだステーキの付け合わせのブロッコリーをひとつ口に放り込む。おれも、吊られて豚カツを一切れ頬張った。 「初対面な方も多かったんですけど、良くしていただきましたね。稽古はかなりきつかったですけど」  にこにこしながら言葉を継いだが、無理に笑顔で話しているように見えた。 「なのに、初日の前日中止になったんだよね」 「……はい」  おれは様子を窺うが、特にコメントをしてこないので訊いてみる。 「残念だった?」 「それは勿論」  その後もおれはちょっと意地悪な質問を重ねてみたのだが、西の口からは残念以上の言葉は出てこなかった。おれははっきり訊いてみる。 「感染症のせいであの公演が中止になってなかったら、君は飛躍的に売れていたかもしれないよね」  少し口をとがらせるようにして黙り込むが、 「どうなんでしょうね」  と微笑するに留める。 「ついてないなとか、思ったんじゃない?」  うーんと言い、水を飲んでから言う。 「でもあの時は、僕らだけじゃなくて全部の公演が中止になったわけですし。他にも影響を受けた業界はあった訳ですから」  悔しい、良い舞台だったからやりたかったという言葉は出てくるが、ネガティブな言葉を極力出さないようにしようとしているのが伝わる。 「おれは思ったんだよ。君は売れてたと思う。せっかくの機会だったと思う」 「……ありがとうございます」  西の大きな目が瞬時に潤んだように見えた。おれの思いすごしかもしれないが。  おれは焦って、言葉を繋ぐ。 「おれの舞台に出てくれないか」  その言葉を聞いて、はっきりと西は息を呑んだ。    *** 「有馬はおれの本名だ。役者の君にはこっちの名前を名乗るべきだったのだと思う。おれの名前は、コンドウテツヤだ」  そう言われた時僕は、魚のように口をぱくぱくとさせてしばらく言葉を発することが出来なかった。  僕のような底辺役者でも、コンドウテツヤの名前なら知っていた。もっと売れている役者なら、実際会って顔を見る機会はあったかもしれない。勉強不足と言われるかもしれないが、僕はコンドウさんの顔は知らなかったのだ。 「無理ないよ。おれは顔出しを極力していないし」  有馬さんはそう言ってくれる。僕にとっては雲の上の存在、天才劇作家コンドウテツヤ。 「実は企画でおれもテレトルの本を書いたんだ。役者は何人かオファーしているんだけど、まだ誰に頼むか決まっていない役があって」  君の芝居を見て、ぴったりだと思ったんだよ、と言ってくれた言葉を、僕は忘れないだろう。  事務所に報告を入れたが、最初は信じてもらえなかった。それはそうだ。僕自身信じられなかった。コンドウさんのオフィスから事務所に依頼がいって、事務所は大騒ぎになった。  それからのことは、まるで夢のようだった。主役を勝ち取った、あの時の夢の続きを見ているみたいに。 「こんなこと、あっていいんですかね。たまたま知り合った人がコンドウテツヤで、仕事を直でもらえたなんて嘘みたいなこと」  いつだったか僕がそういった時、有馬さんは煙草の煙と一緒に笑いを吐き出した。 「いいんじゃないの。そもそも感染症で全てが奪われたのが嘘みたいなことだったんだ。代わりにちょっとくらいいいことがあって、失ったものを取り返せたっていいんじゃない」 「取り返す、か。それはそうかも」 「おれらみたいな業界大手でもきつかった時期を、生き残っただけで偉いさ」  そう言って、僕の背中をぽんと叩いた。  あの時のテレトルは好評で、ついに舞台化されることになった。二年ぶりに舞台で、観客席に客入れをした状態で、芝居ができることになったのだ。その舞台に、僕は立つ。 「頼むぜ期待の超新星くん」  有馬さんが言ってくるので、僕は苦笑いを返す。世間では、僕の幻の舞台や過去のテレトルでの実績はほぼ知られていない。多少お涙頂戴の記事で昔のことが書かれたくらいで、新人が分不相応に抜擢されてトントン拍子にコンドウファミリーに迎え入れられたと思っている人が殆どだ。  僕自身の役者人生を振り返って、トントン拍子だったとは正直言えない。反面、外から見てトントン拍子に見えるのはわかる。分不相応と言いたいこともわかるが、そこを認めてはコンドウさん初めカンパニーのメンバーに迷惑がかかる。 「まぁ、任せてくださいよ」  僕は言ってみる。有馬さんはお、と笑った。  板の上で芝居をすることが好きだったのに、板に立たせてもらえなくなった。それでも芝居を続けてきた。今日は板に立てる。『普通』が戻ってくる。あの頃の普通を僕の日常にするために。あの日々を取り戻すために。 「そろそろ出番だな」 「はい。いってきます」 「ぶちかましてきて」  有馬さんが軽い調子で言うので、僕は頷く。  舞台袖に立つ。客席が見えた。お客様も待ち望んでくれていただろう、ほぼ満席である。  久方振りの武者震いを抑え、僕は息を吸い込んだ。  言うべき言葉(せりふ)を吐き出すために。
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