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米倉朝美
ベッドの中で、熟睡仕切っている年配の男の顔を見る事もせず、米倉朝美は一人、ソファに脱ぎ捨てた服を速攻で身に付けていく。
一人では、そのラウンジでお茶を飲む事さえ憚れるような一流ホテルで、一晩金持ちの男相手に身体を売る。
背に腹は代えられないという言葉通り、朝美には罪の意識を感じている暇はなかった。
高校卒業後、エステティシャン養成学校を出て、勤めたエステサロンには、赤坂と言う土地柄もあって錚々たるメンバーが客として訪れていた。
彼女達は余分な脂肪こそ蓄えていないものの、皮膚のたるみ、目元の小じわなどに恐れを抱き、月に何十万もの金を店に落としていく。
「客が大枚をはたいてでも欲しがる若さを、私は当たり前のように手にしている」
それだけでちょっとした優越感を味わった朝美だったが、同時に、こうした有閑マダム達を取り込むサロンを経営したいという気持ちが湧く。
その為には先ず、資金調達と考え、生活を切り詰められるだけ切り詰め、深夜に、ファストフード店でのバイトも始めた。
しかし、栄養不足が祟ってか、拒食症患者のような、骨と皮の姿になってしまい、店からは「瘦せすぎもほどほどに」との注意を受ける。
このままでは職を失いかねないという危機感を覚えた頃、バイト先の同僚である藤代早紀に「実入りのいいバイト、紹介するわよ」と言われ、お茶に誘われた。
藤代はストレートに「一回寝れば、三~五は堅いから」と言い、二人が勤めるファストフード店での給料の少なさを例に挙げ、朝美をその気にさせた。
結局「やってみて無理と思ったら、やめればいいし」という藤代の言葉に屈した朝美は、翌週には管理売春組織を紹介され、仕事に就いた。
朝美は、男に気づかれぬよう身支度を整え、部屋を出ても、ホテルのエントランスを抜けるまでは安心できなかった。
コールガールという身売り業は、多額の報酬を得られる反面、通報により逮捕となる可能性もある。
全くの素人を装って、ホテルの回転扉を抜けると、数分でメトロへと続く階段に行き着く。
電車の座席に身を置くと、朝美は、漸く一息つく事が出来、禊ぎの儀式のように冷たくなった指先をさすり続けた。
「じゃぁな。実家、帰るんだろう?真岡市だっけ。夏休みに比べれば短いけど、お互い、いい年を迎えようや」
「あぁ、俺も天涯孤独の身とは言え、それなりにやる事があってさ」
「気をつけてな」
「うん、有難う」
今日で大学も終わり、明日からは冬期休暇に入る。
大学から、数分の距離にある、寮までの道ですら、誰かにつけられているのでは?と危惧する雄太ではあったが、一方、このまま、逃げ通せる訳がないとした思いも抱いていた。
寮の玄関ドアを開けると
「鈴木君、お帰り。今さっき、萩の月をもらったんだけど、いらないかい?」
と寮監の佐伯が声を掛けてくる。行く手を阻まれた雄太は、苛立ちを覚えるもそれをおくびにも出さず
「有難うございます。あれ、美味しいですよね。頂きます」
と言って受け取った。
雄太は、何かと自分の世話を焼いてくれる寮監の佐伯が、自身の犯した犯行を知ったらどうなるのだろう?と想像してみた。
佐伯が取材記者からインタビューを受け「あんな礼儀正しい子が、人を殺すなんて…未だに信じられません」と肩を落としている姿が浮かんでくる。
しかし、佐伯だって、当の昔、人間には裏の顔があると知っているはずなのだと思い、寮の階段を昇った。
列車とバスを使い、かつて、父と二人、男所帯だった家に辿り着く。
明日は墓参りに行き、その後は、高校の同級生との飲み会の予定だった。
酒を飲んだところで、酔える状況ではない。
だが、この先、皆とは暫く会えなくなる事を考えれば、時間が許す限り飲んでやろうという自暴自棄にも似た気持ちが雄太を支配した。
家のドアを開けて中に入ると、懐かしい、その家特有の匂いがした。
父は、生前「男たる者、常にボストンバッグ一つで生活できるようにしておけ。余計なものを増やすな」と言っており、その名残りからか、部屋の中には生活感を漂わせているものは一切なかった。
しかし、そうは言っても随所にほこりは溜まっており、拭き掃除でも始めるかと思った矢先、玄関のベルが鳴る。
訪問者が誰か、薄々気づいていた雄太ではあったが、、取り敢えず玄関に行きドアを開ける。
「雄太君、お帰りなさい」
「おばさん、こんにちは。よくわかったね。俺が帰ってきたの」
「そりゃ、わかるわよ。言うなれば、雄太君はうちの息子みたいなものだからね。これ、雄太君の所に届いていた郵便物。ダイレクトメールは処分して良かったのよね」
「いつもすみません」
「じゃ、落ち着いたら、寄って」
「ありがとうございます」
米倉房子は、用件だけ済ませると、長居は無用とばかりに姿を消した。
そして雄太は五か月前の夏、房子から告げられた衝撃の事実について記憶の糸を手繰り寄せた。
その日、雄太は家で、父の遺品整理を行っていた。
「あれほど、物を持ちたがらなかった人でも、結構、溜まってしまうものなんだな」
とは言え、段ボールの中に雑然と物が入っているわけではなく、きちんとケースや書類入れに仕分けされ、保管されていた。
作業の途中、来客を知らせるベルが鳴る。
出てみると、米倉房子が憔悴しきった顔で立っていた。
「ごめんね。ちょっと、時間いいかしら?相談したい事があるの」
思いの外、険しい表情にただならぬ気配を感じた雄太は、すぐさま、房子を家に入れた。
居間に通された房子は、膝の上に手を重ねるようにして置き、降ってわいたような災難とも思われる出来事を、自ら、語り始めた。
房子が、娘、朝美の身に付けている物の変化に気づいたのは、数か月前だったと言う。
洋服は勿論、靴、アクセサリー、時計、ハンドバッグ。それらすべてがセレブでなければ買えないような高級品で揃えられているのを見た房子は、やってはいけない事と知りながらも、朝美の携帯をチェックしてしまう。
そして、ライン上、頻繫に、ある男とのやり取りが為されているのを知った。
その男の名は、樋口辰夫といい、朝美が樋口を介して、金持ちの男達を紹介してもらっている事を突き止めた。
ラインには、男達とホテルで会った後の報酬額も記されており、房子は、娘がどっぷりと売春の世界に身を置いているのだと確信する。且つ、房子は、男の勤務先の情報も仕入れており、男と会い、朝美に足を洗わせるよう頼もうとしていると言う。
「だめだよ。おばさん、そんな事したって。逆に、ゆすられる。俺に任せて」
「でも、迷惑になったら悪いし…」
「いいから、いいから」
雄太はそう言って、房子の肩に手を置き、くるっと回転させると、玄関の方へ誘導し、帰ってもらった。
雄太は、房子から入手した樋口の連絡先に、風俗店で知り合いの女を働かせたい男を装って、コンタクトを取る。
樋口は「所詮、いい事して金も稼げるって言うのはさ、若い女にしか出来ない。今のご時世、彼が彼女を説得して、短期間で数百万の上がりなんて普通だから。お宅もそういう口でしょ」と言い、男の肉欲と女の物欲をかけ合わせれば、簡単に金になるのだとのたまった。
丁度その頃、父の遺品整理で、偶々、銃を手にしていた雄太は
「あのふざけた野郎に制裁を加えてやる」
という思いもあり、秘かに樋口殺害計画を練り始める。
銃は分厚い本をくり抜きその中に隠し入れた。樋口の勤め先には何度も足を運び、スタッフの顔ぶれ、樋口の出社、退社、休憩時間などを隈なく調べ上げた。
機が熟した12月、ジェントルに入った雄太は、オフ会所属メンバーの振りをして、樋口が一人控え室に消えるのを待った。
「よし、今だ」
これから殺されるという事を全くを持って知らない樋口は、混んでいる店の状況など知るものかといった様子で、控え室へと消えた。
出所がわからない怒りのようなものに突き動かされた雄太は、すっと、オフ会グループから抜けると、トイレでディスポーザブルのグローブを装着し、小型の銃を内ポケットに隠し持ち、入室する。
電話中で、雄太が入ってきた事に気づかずにいた樋口の後頭部を、部屋に置いてあった小型の消火器で強打すると、そのまま樋口は、机の上のバッグに顔を埋めるようにして倒れ込んだ。
痛い思いをさせたのだから、これで充分ではないかという気持はあった。
しかし、こんな男を生かしておいても、世の中の為にならないと判断し、引き金を引いた。
部屋を出て、駐車場に続く階段を下りるまでの記憶はない。
ただ、冷たい夜風に打たれた時「捕まってたまるか」という気持ちが押し寄せてきて、無我夢中でバイクを走らせた。
夜になり、高校の同級生数人と会う約束をしている居酒屋に向かう。
雄太は、これが、あいつらと酒を酌み交わす最後になるかも知れないという思いに押しつぶされそうになりながらも、平然を装って店の中に入る。
皆との再会を喜び、二時間余りを何とか、耐え忍ぶが、どれだけ飲んでも冴え続ける頭に
「いっそ洗いざらい、ぶちまけてしまおうか」
という気持ちになる。
そうした中、メンバーの一人から
「雄太、大丈夫か?けっこう顔色悪いぞ。時間も時間だし、お開きにしようぜ」
との声が上がり、最後の飲み会も幕を閉じた。
家に帰って、仏壇に線香を供え、父の遺影に目を移す。雄太は
「父さん、俺は以前、警察に父さんを迎えに行ったけど、今度は俺自身が連行される羽目になりそうだよ。馬鹿みてぇだろ」
と語りかけると、緊張の糸がほどけたのか一気に眠くなり、ソファで泥のように眠り続けた。
今年も、残すところ二日となり、鳥羽と井上は他の捜査員らと共に、捜査会議に出ていた。
樋口が妻と共謀して、悪質なブローカー行為を行っていたという
事実関係を押さえたものの、犯人像が浮かび上がって来ない。
今年中の事件解決はほぼ無いとわかっている二人ではあったが、刑事から執念
を取ったら何も残らないと言われている事もあり、ホワイトボードに書きなぐられた参考人達の名前を目で追い続けた。
そんな中、八王子東署の刑事、河合が挙手し
「オフ会グループ、メンバーの三橋梢の証言の裏を取って見た所、途中で消えた謎の男を目撃した者は、三橋以外おりませんでした。しかし、三橋が皆から少し離れた場所にいたという事実は確認ずみですので、この線をもう少し詰めていきたいと思います」
と述べ、他の捜査員から
「三橋の記憶が定かな内に、モンタージュを作成しておくべきではないでしょうか」
との声が上がると、河合は
「わかりました。直ちに行います」
と答えた。
会議は正午過ぎに終わり、鳥羽は、ペアの井上に
「昼飯後、藤代早紀の所に行き、樋口の斡旋業で何か、トラブルになっていた事がなかったか、聞いてみてくれないか」
と頼み、自身は樋口の口利きで店に紹介された女達を重点的に調べる事を告げる。その時、背広の内ポケットに振動を感知し、素早く電話に出る。
「はい、鳥羽です」
「鳥羽さんですか?僕、ジェントルの従業員の坂田です。その節はどうも」
「あぁ、坂田君。こちらこそ、ご協力頂き有り難うございました」
「実は事件には関係ないのかも知れないんですけど、思い出した事がありまして…」
鳥羽は、予定を変え、急遽、ジェントル従業員坂田に会うべく、彼の指定した場所に急行した。
坂田とは坂田の通う大学の正門前で落ち合い、鳥羽は、彼に導かれるようにして中に入る。
「学食でいいですか?」
と聞かれた鳥羽は「勿論」と言うように深く頷き、混んでいる席を避けた一角に座る。鳥羽は坂田に
「ちょっと待ってて」
と言い、トレーに二人分のホットコーヒーを載せ戻ってくると、甲斐甲斐しく、坂田の前にコーヒーを置いた。
「さっ、どうぞ」
「すみません」
砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜている姿は、これから行う密告を逡巡しているようにも見えた。坂田は、カップを口に持っていき一口すすると
もう迷いはないとでも言うように口を開く。
「あの日、若い男女のグループがお店に来ていて、その中の何人かは知ってる顔だったのですが、ふっとその中に同じ大学の学生が混じっているのに気づいたんです。でも彼は途中からいなくなっていて」
三橋梢の証言を思い出した鳥羽は、思わず背中がゾクッとする。
「学部も違う男をなぜ、知っているのかと言うと、男性向けのファッション誌”スタイリッシュ“に彼が載っていたから。時々、街で見かけたおしゃれな男と銘打って、何人かの男性をピックアップして特集を組むコーナーがあってそこで彼を知ったんです。うちの大学にもこんなイケてる奴がいたんだなって」
鳥羽はその足で、坂田の家に行き、例の学生が掲載されている雑誌を借りた。
巻末に載っている出版社の連絡先を見つけた鳥羽は、早速、接触を図る。
出版社という、遅くまで社内に人が残っている事が推測される業種ではあったが、返事は、年明けになると言われ「くそっ。大晦日まで働けよ、ぐーたら」と、通話終了の携帯に言い放った。
年が明け、ファミレスマネージャー殺人事件の捜査会議場として使われている八王子東署の武道場は、数日前に、鳥羽が入手した新たな情報に、騒然となっていた。
「鳥羽刑事の報告は大変興味深い内容ではありますが、物的証拠も無い現状においては、勇み足となり兼ねない。
但し、任意で引っ張る分には構わないでしょう。直ちに、鳥羽、井上班は西京大学経済学部三年、鈴木雄太の任意同行に向けて動くように」
二人は的場の言葉を受け、会議が終わった時点で、西京大学の学生寮まで足を運んだ。
寮監に、警察からの要請である事を告げ、事情を説明する。
寮監の佐伯は寝耳に水といった表情で、自分なりの反論を試みようとしたが、無駄な事とわかり、二人を寮生、鈴木雄太の下に案内する。
佐伯は鈴木雄太の部屋の前に来ると、突如として振り向き、鳥羽達に何かを訴えかけようとしたが、二人の無言の圧力に屈し、ドアをノックする。
「鈴木君、佐伯です。君にね、お客さんが訪ねて来ているのでお連れしました。ちょっと、いいかな?」
「はい」
という返事と共に、ドアが開く。寮監の佐伯は後ろに下がり、鳥羽と鈴木雄太との一対一での視線の攻防となった。
鳥羽は、自身の長年かけて培ってきた勘が働き、何かを感じるが、それを無視し雄太を連行した。
八王子東署の取調室で、鈴木雄太は、レストラン「ジェントル」にて、マネージャー樋口辰夫を殺害した事を認めた。樋口により、大切な人が貶められたというのが主な理由だった。
「被害者に対して罪の意識はありません。でも、重罪は重罪なので宣告された刑に服します」
鳥羽は、鈴木雄太の言葉に、一体、何が正義なのかわからなくなる。
本来であれば「殺された本人がどれ程無念だったか考えて見ろ」と椅子を蹴とばす位の怒りが沸き起こっても良いのだが、取調室には、調書に内容を記すペンの音だけが微かに聞こえ、鳥羽の全身を、完敗にも等しい気持ちが包み込んだ。
その日、仕事を終えた鳥羽は、夕刻官舎へ帰る。
ブザーを押すと「はーい」と言う声と共にドアが開き、静代が待ってましたとばかりに鳥羽を迎え入れる。
「お帰りなさい。今日はね、定時に帰ってきてくれる予感がしたのでお鍋にしたの」
「そうか。そりゃ、楽しみだな」
着替えと手洗いを済ませて食卓につくと、鍋はグツグツと、その食べ時を知らせるように音を立てていた。
静代は小鉢に、具材とスープをよそり、鳥羽の前に置く。
「熱いから気を付けて」
「うん」
夫婦二人で温かい鍋をつつく。こんなささやかな幸せがあれば、十分だ。
樋口によって、身を落とす事になった女達と、その樋口を、己の手で断罪しようとした鈴木。
法に背いた者を追い、連れてくるまでが刑事の仕事。後は検察側の仕事だ。
鳥羽は、そう割り切り、いつものように得意げに芸能ニュースを披露する静代に「へーぇ」「そう」と適度に合の手を入れながら、今日も終始、聞き役に徹した。
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