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新たな理想郷
楽園に、おれはいた。
荘厳な城に住み、壮麗な山岳風景が眼下に広がる。傍らには美女たちを侍らせ、広間のテーブルに並ぶ最高級の料理を平らげる。高貴な身なりで青空を飛び、様々な姿に変身し、好きな遊びをいつでも楽しめる。
これは仮想現実だからだ。
自己修復も可能で頑丈な万能機械が完成してから、永久に稼働する完全なVR装置が開発され、現実を捨てて望みの空想世界で暮らすことを選択した一人がおれだ。
「バーチャルに引き籠らず現実の生活を良くする努力をすべきだ」などと主張する連中もいたが、そんな科学をもってしてもなお様々な問題に悩まされていた当時の現実に残ったそいつらとは、袂を分かった。
自分に合った最高の快楽が得られる仮想現実を選択し、老化も怪我も病気もなく生命活動を恒久的に維持できるカプセル状ベッド型装置〝デウスエクスマキナ〟で、VR空間へと旅立ったのだ。
それから、どのくらいの年月が流れただろうか。
――突然、楽園は終わった。
「すみません、目覚めてくださいませんか」
永らく忘れていた、現実の不快な感覚が全身を包んだ。
嫌々VRから覚醒して目蓋を開けると、リアルではおれのベッドを数人の人影が囲んでいた。
いや、同じ人とは思えない。古代ギリシャ人のキトンのようなものを纏った仄かに輝く美男美女の威容だ。蓋が開いたデウスエクスマキナの中で全裸なおれを、悠揚迫らぬ態度で見下ろしている。
「なんなんだ」狼狽えつつも、どうにか尋ねた。「あんたら何者だ、どうして呼び戻した!?」
上体を起こしてよくよく観察すれば、おれのベッドは宇宙に浮遊していた。最後に眠りに就いたときは、とある惑星でデウスエクスマキナ関連施設内に設置されていたはずだが。
星が滅びたのか? まあそんなことはどうでもいい、デウスエクスマキナはそれにも耐えられる。
しかし、カプセルベッドから出て宇宙空間で生きられる生身ではないはずだ。なのに、なぜ無事なのか。そもそも、囲んでいる連中は同じ地球出身の人間なのか?
やがて周囲には、他のデウスエクスマキナもどこからか集められてきて、同様に起こされてこの妙な美男美女たちに対面するはめになったらしき同胞が幾人も窺えた。
「いきなり覚醒させてしまって申し訳ありません」
包囲する連中のうち一人が口を利いた。
「我々はかつてあなた方と同じであった人間、今は科学も用いた自己進化を繰り返し〝神人〟と称しておりますが。実は、この宇宙がもうすぐ自然消滅すると最近判明しましたので、お報せに参ったのです。あなたがた〝旧人類〟やデウスエクスマキナでは耐えることができません」
混乱するおれたち――彼ら曰く〝旧人類〟に、神人たちはそんな説明をした。どうやら、もう宇宙が寿命を迎えるほどの時が経過していたらしい。
そういえば、そこらの星空も記憶にある過去のものとはだいぶ異なっているようだ。どんな形の宇宙の死かは、興味がないのでわからないが。
「わたしたちはあなた方が仮想現実に籠った後も、現実を諦めず良くしようとしてきた者たちの末裔です」神人は、こちらの動揺など構わずにしゃべる。「結果、ほぼ全能となるまでに至り、現実の別宇宙に新たな理想郷を創造することにも成功しました。今、滅びゆくこの宇宙空間であなた方が無事なのも、わたしたちの能力によるものです」
「……じゃあなんだ」どうにか心を落ち着けて、尋ねてみる。「おれたちにその現実の理想郷に引っ越せっていうのか?」
「いいえ、それは神人の域に到達したわたしたちだから成せること。あなた方は、現実の理想郷への移動には耐えられず死を迎えてしまいます。無論、デウスエクスマキナの仮想現実にいても装置と共に宇宙の崩壊に巻き込まれるでしょう」
「――何よそれ!」
おれが口にしようとした抗議を、別のベッドのやつが言った。みな、同じ解説が聞こえていたらしい。神人たちに旧人類呼ばわりされたおれたち同士の声も、遠く離れていてもなぜか互いに届く。これも、進化したという連中の業のようだ。
「じゃあ絶望させるためだけに起こしたの!? 全能となるほどになったっていう割に、あたしたちを助けることもできずに!」
申し訳なさそうにある神人は弁明した。
「すみません、あくまでまだ〝ほぼ〟全能に過ぎませんので。できないこともあります。ただ先を知りながら、いきなりVRごと滅ぼされるあなた方に何も教えないのも酷かと思案し、お伝えに参った次第です」
なかには、公然とこんな言及をする神人もいた。
「そもそも自業自得でしょう。あなたたち旧人類は現実に多様な難問が山積する中でその解決を諦め、VRに引き籠った。我々が現実をさらに良くしようと努力してきたアリなら、あなたたちは遊び暮らしていたキリギリス。宇宙の終極は冬の到来だ。数限りない先祖の犠牲と苦難を乗り越え、我々はようやくこの段階に到達したのですから」
その台詞に、大半の旧人類は意気消沈して押し黙ってしまった。
やがて、神人たちはどうするのが望みかを尋ねてきた。
長考の末、旧人類たちが選択した行く末は様々だった。
せめて最期は現実で受け入れようとする者もいた。仮想現実に戻り、そこで終末を待つことを選ぶ者もいた。宇宙が終わるという事実を学んだ記憶だけを消してもらい、仮想現実で死のうという者もいた。
おれも苦悩した。悩んで悩んで悩んだ末に、ある結論に辿り着いた。
「……〝アリとキリギリス〟ね」
それを、口に出してみる。
「だがあれは、蟻のケチさを批判したイソップ寓話でもあったはずだ」
我ながら図々しいと思いもしたが、生きたいという意思を捨てられなかった。不思議そうに注視してくる神人たちへと、おれは提言してみた。
「この身体で、あんたらが別宇宙の現実に築いた理想郷とやらに移動するのは無理だそうだが、本当にそうなのか。おれは行ってみたい、一緒に連れて試してはくれないか?」
神人たちが騒めく。
ごく短い期間だったが、おれたちには測れないテレパシーか何かによって、無言のまま高速で神人全員が議論でもしているかのようだった。
まもなく、うち一人が開口した。
「……一理ある。彼らのような存在を見捨てるのが、進歩した存在の行いといえるだろうか」
すぐさま、別の神人が反論する。
「しかし、それはどう考えても不可能と結論が出たはず」
「そんな現実を諦めずに可能としてきたのが我々の誇りだったのではないのか、ならば再び挑戦してみてはどうだろう」
それから、彼らは表向き黙止した。また旧人類には未知の手段で意思疎通が行われているかのようだった。
やがて、神人たちからの決定は下された。
「……いいでしょう。では現実の理想郷に向かいたい旧人類の希望者は、立候補してください」
もっとも、付加もする。
「わたしたちは限界まであなた方を宇宙の崩壊から守護しつつ、別宇宙の理想郷に案内しましょう。ただしどれほどの現象に阻まれるかは未知数で、わたしたちが辿ってきた何億年もの進化、数限りない先祖の犠牲の苦難をあなた方も経験するはめになるかもしれません。ほぼ全能になった我々の計算でも、それでも成功する確率は限りなくゼロに等しいのですから」
旧人類たちは息を呑んだ。
沈黙と思索のうちに、宇宙は明らかに名状しがたい異常な変容を遂げていく。終焉は間近なのだろう。
前回の選択を再度決め、臨終に向き合う者たちもいた。だが何人かは省察の末に、理想の仮想世界や宇宙の崩壊を逃れ、新たに現実の理想郷への道を希望した。
おれも、その一人だ。
「では、行きましょう!」
やがて準備が整うと、神人の一人が力強く宣言した。
彼らの満身を包む、ほぼ全能の力の証であろう淡い光が辺りを呑み、全てが真っ白になる。
これからなにがおれたちを待ち受けているのかはわからない。ただおれは、現実を諦めずより良くしていこうという道を、このとき選んだことだけは確かなはずだ。
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