第二話 菊地 陽葵①

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第二話 菊地 陽葵①

 退屈な学校、退屈な友達、退屈な毎日。  この退屈な世界――。  旧校舎の二階、一クラスだけ隔離された教室は下駄箱から一番遠い端にある。『2年5組』と書かれた教室札を見て陽葵(ひまり)は足を止めた。  サボろうかなぁ――。  そう思って、踵を返そうとしたところで肩をポンと叩かれる。 「菊地どうした? はやく教室に入れ」  担任の品田が白い歯をみせて微笑んだ、鏡の前で練習していそうなわざとらしい笑顔に陽葵は愛想笑いで返した。 「よーし、朝礼はじめるぞー」  出席簿をパンパンっと叩きながら教室に入る品田に続くと、クラス中から冷やかす声が飛んでくる。 「お、一緒に登校ですかー」 「よっ、お似合いのカップル」  指笛を鳴らす馬鹿までいたが陽葵は無表情のまま席についた。 「バカなこと言ってるなよ、お前らぁ、ほら座れえ」  品田博之、二十七歳。二年五組担任、バスケ部顧問。身長百七十八センチ、体重六十八キロ、独身、恋人なし。  女子校に突如現れた若い教師は、欲求不満の暇な女子生徒たちにあっという間に丸裸にされた。本人も満更でもなさそうで家の住所まで公表している。陽葵はなんの興味も沸かなかったが、周りでこれだけ騒がれれば嫌でも耳に入ってくる。 「菊地陽葵」「はい」  出席簿を片手に呼んできた品田に適当に返事した。なにやら不満そうな表情をしているが無視をする。 「ちょいちょい、陽葵」  目の前に座る由井愛菜が半身を向けて小声で話しかけてくる。苗字も名前みたいな愛菜は制服のスカートを限界まで短くして髪は茶髪、いわゆるギャルだったが成績が良いので誰も注意しなかった。 「まじで朝帰り?」 「んなわけないでしょ」 「だよねー」  陽葵と品田に謎の交際疑惑が持ち上がったのは先週からだった、バスケ部に所属する陽葵が練習をサボって倉庫で昼寝しているとそのまま熟睡、気がついた時には練習も終わりあたりは真っ暗。倉庫からでるとちょうど帰宅するところだった品田に遭遇した。仕方なく正直に話すと、怒るどころか車で送ってくれた。その様子をどうやら他の生徒に目撃されたようだ。噂は尾ひれが付いて瞬く間に拡散、今に至る。 「渡辺加奈子」  品田は最後の生徒の名前を呼ぶと、生徒に背中を向けて黒板と向き合った。真っ白なチョークで派手な音を立てながら文字を綴る。陽葵は小さくため息をついてスマートフォンを取り出した。Twitterを起動して流し見する。 「菊地ー、読んでみろ」  教室が弛緩するのが空気でわかる、陽葵は視線をスマートフォンから黒板に移して座ったまま声を出した。 「人事を尽くして天命を待つ」  まるで感情を込めないで機械のように呟くと、品田は満足そうに二回うなずいて解説をはじめた。朝礼では毎日、品田がことわざや格言、時には四字熟語を披露してあれこれ熱弁している。昔見た再放送のドラマ、たしか金八先生の真似事か知らないが真面目に聞いている生徒はあまりいない。  いつも通りの退屈な朝礼が終わると、退屈な授業が始まる、退屈な部活に顔を出して、退屈な家に帰る。そうして陽葵の退屈な一日は終わる。 「品先、ぜったい陽葵のこと狙ってるよね」  お昼休みにいつもの三人で昼食を食べていると加藤菜穂がお弁当のリンゴを楊枝で突き刺しながら声をひそめた。 「わかるー、見え見えだよね」  早食いの愛菜はすでに弁当箱を片してスマートフォンを眺めていた。陽葵は購買で買ったカツサンドを頬張ると緑茶で流し込んだ。 「いや、ないでしょ」  高校ニ年、十七歳。少女から大人に変わる絶妙な年齢の話題の中心は恋バナ。まるで興味が湧かない陽葵は適当に相槌を打つと残りのカツサンドを飲み下した。 「いやいや、陽葵は美少女の自覚が足りない」  美少女の自覚。菜穂の言葉がおかしくて吹き出した。 「そうそう、黒髪ロングの美少女、おまけにスカートはちょい膝上の清楚系、アニメか!」 「あんたのスカートが短すぎるだけでしょ」  すかさず愛菜に言い返す。 「そんで、性格はサバサバ系の姉御肌ときたもんだ」  あっさり返されて陽葵は抵抗するのをやめた、確かに自覚もしていた。特筆して自分が美しいと感じたこともないが、小さな頃から言われ続ければそうなのかな、と思うのも仕方ない。なんにせよ、あまり興味もなかった。 「陽葵は品先なんか興味ないよね?」  菜穂は申し訳なさそうに上目遣いで聞いてきた、まさか気があるのだろうか。 「まさか、ありえない」 「だよねー」  パッと笑顔になる菜穂を見て、人の好みはそれぞれだな、と感心した。  午後の授業は眠くなる、窓際一番後ろの特等席はくじ引きで運良く引き当てた。昔から運は良い。いや、と陽葵は考えを改めた。初夏のあたたかい日差し、校庭から聞こえる耳心地いいサウンドは眠りの世界に誘う子守唄。この誘惑に耐えながら授業を受けるのはある意味罰に近い。  退屈な世界――。  こうやって無駄に時間を使って、いずれは死ぬ。  悪い癖。この考えにいたると陽葵は恐怖が足元から這い上がってくるような気持ちになり覚醒する。  死にたくない――。  退屈だなんて文句を垂れながら、死にたくないなんて矛盾している。いや、正確には死ぬのが怖い、いや、もっと正確に表現するなら、自分が死んだ後も世界は変わらずに続いていくのが怖かった。百年、千年、一万年。陽葵がいない世界は永遠に終わらない。そこに陽葵はいない。二度と現れることもない。 『ガタンッ!』  勢いよく立ち上がると、椅子が後ろにひっくり返る。呼吸が浅い。過呼吸になることも時折あった。 「おい、菊地、大丈夫か?」  初老の英語教師が心配そうに近づいてきた。右手を軽く上げて大丈夫、とアピールする。 「すみません、保健室いいですか?」 「ああ、誰か付き添わないで大丈夫か?」 「はい、ありがとうございます」  愛菜が「いこうか?」と言ってくれたが断った。一人になりたい。  保健室にはすでに一人先客がいた、頭まですっぽりと布団を被って寝息をたてている。白衣を着た保健の先生は常連客の陽葵を笑顔で受け入れてくれた。  死の恐怖が這い上がってきた時、陽葵は人間の死がない未来を想像する。医療が発展して歳もとらない、永遠の時間を生きる事ができる未来。陽葵が存在する世界。  落ち着いてきた呼吸と共に眠気がやってきた、隣の生徒に習って布団を頭まで被ると静かに目を閉じた――。  嫌な感覚、覚醒しない夢の中。金縛りにあったように動けない。ここは家の中、陽葵の部屋かと錯覚した。「キィィ」と不気味な音を立てて扉が開くと、真っ暗な人影が目蓋の裏に映る。怖くて目を開ける事ができない、その得体の知れない人影は陽葵の手を握る、髪を撫でる。決して目を開けてはならない、それは中学生の時に初めてこの夢を見てから決めていた。ただ黙って耐える、時間にして五分から十分。静寂の中で小刻みに動く人影がいなくなるまで固く目を閉じる。 『キーンコーンカーンコーン』  日本全国まったく同じ音源、ウェストミンスターの鐘が鳴った事でここが陽葵の部屋じゃないことを確信した。あれは学校にはいない。陽葵は虚な夢から覚醒すると目を開けた。同時に握られていた手が解放されるが、じっとりとした嫌な感触は残ったままだった。 「何してるんですか?」  侮蔑の眼差しに冷めた声色をのせる、品田は引っ込めた手をわざとらしく後頭部に持っていってボリボリと掻いた。 「おお、菊地、目が覚めたか。具合が悪くなったって聞いてな」  陽葵は上半身を起こして布団を剥いだ、体を確認する。白い半袖のセーラーに紺のリボン。制服のスカートからは陽に焼けていない細い足が伸びていた。 「犯罪ですよ」  ベッドからおりて上履きに爪先をつっかける、品田は何を言われたか理解したのだろうか、口をパクパクさせて金魚みたいだった。その横を無言で通り過ぎると保健室を後にした。
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