第五話 三千世界②

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第五話 三千世界②

 目的地までの経路案内は近づくにつれて複雑になっていった、やけに細い道を通らされたり、民家の庭先を横切ったり、梯子のついた塀をよじ登ったりと。まるで人目を避けるかのようなルートをなぞり到着した建物は古めかしいビルだった。灰色の外壁にはひびが入り、金具が緩んで落ちてきそうな看板には何も書かれていない。本当にこの場所であっているのだろうか、陽葵は曇ったガラス扉の前に立った。 『三千世界事務所はこちらからどうぞ』  A四サイズのコピー用紙にマジックで書かれた角ばった文字を見て、陽葵は引き返そうか迷った。その場で長考していると不意に背後から声をかけられて心臓が跳ね上がる。 「あのう、入りますか?」  蚊の鳴くような小さな声で尋ねてきた男の子は、申し訳なさそうに話しかけてきた。前髪が目元にかかり背が低く猫背、どこかで会ったような気がしたが、考えるよりも前にまず彼の質問に答えた。 「入りますけど、君も?」  男の子が無言で頷いたので少し安心した、一人で突入するには勇気がいる建物だ。扉に手をかけて手前に引いた、中は薄暗く埃っぽい。すぐにエレベーターがあり、ご丁寧に『受付3F』と張り紙が貼られていた。おずおずと陽葵の後ろをついてくる男の子と一緒に年季の入ったエレベーターに乗り込むと、ゆっくりと箱は上昇を始めて目的の階で止まった。 「いらっしゃい、ようこそ三千世界へ」  エレベーターを開けた瞬間に現れた男に声をかけられた陽葵は、びっくりしてその場に尻餅をつきそうになった、後ろにいた男の子が支えてくれている。 「あ、ごめん」 「い、いえ」  陽葵は目の前で破顔する男を見上げた、身長百五十八センチの陽葵よりも頭三つは大きい、実験が失敗した科学者のように見えるのは爆発したようなモジャモジャの頭に、白衣を着ているからだろう。 「ずいぶんと可愛らしいお客様だ、どうぞこちらへ」  白衣の男はそう言って奥の扉を促した、おそるおそる入室すると八畳ほどのスペースに応接セットがあるだけの素っ気ない部屋に通された。奥のソファに男の子と二人で座ると「コーヒーで良いかな?」と尋ねてきた白衣の男に「はい」と同時に返事した。その様子をみて穏やかな笑顔を浮かべた男を見て、陽葵は少し安心する。  気持ちが落ち着いてきた所で隣に座る男の子の事を思い出した、昨日痴漢から助けてくれた子だ。 「ねえ、君、昨日電車で痴漢から助けてくれたよね?」  陽葵は興奮気味に問い詰めた、いたいけな女子高生が痴漢に合っていても傍観する人間は多い。なるべく関わりたくない気持ちは分かるが。 「え、あ、いや」  曖昧に下を向いたまま、それだけ言って黙ってしまったが陽葵は確信していた。雰囲気、匂い? なんと言うか存在感がないようである。不思議な男の子だった。 「お待たせ。ミルクと砂糖はそこにあるから」  白衣の男は戻ってくるとコーヒーカップを二人の前にそれぞれ置いた、カビ臭かった部屋に香ばしい匂いが充満する。 「ありがとうございます」  また陽葵と男の子の声が重なる。 「仲が良いね、恋人かな?」  目を細めた男はよく見ると整った顔をしていた、日焼けした肌は彫りが深く日本人離れしている。爆発したような頭と、大きな体がアンバランスで何かのキャラクターみたいだ。となりの男の子が質問に慌てて「違います、違います」と否定している。そんなあからさまに迷惑そうにされると少し傷ついた。  宗教のような胡散臭い雰囲気がないことに安心した陽葵はさっそく本題に入った。 「ホームページ見て来たんですけど」 「ほう、やはり若い人はインターネットの方が、うん、あ、自己紹介が遅れたな。神宮寺諭吉、福沢諭吉の諭吉だ」  座っても大きな体の神宮寺が、体を屈めて自己紹介した、慌てて陽葵も続ける。 「菊地陽葵です」  言った後に本名を名乗ったことを後悔した。 「天野春翔です」  つられて自己紹介した隣の男の子、嘘をつけるようには見えない、おそらく本名だろう。春翔くんね。陽葵は心の中で復唱した。 「三千世界に興味がある。つまり現代になにか悩みを抱えている、そうだね?」 「はい」と陽葵は頷いて先を促した。 「その悩みに私たちは興味がない、必要なのは未来を切り開く勇気ある者たち」  人生相談でもされた挙句に宗教に入らされたり、怪しげな開運グッズでも買わされそうになったら問答無用で帰ろうとしていた陽葵の予想は外れた。 「あの、具体的にどうやって千年後の未来に行くんですか?」  神宮寺はアニメキャラクターのイラストが描かれたマグカップに、砂糖を山盛り五杯入れてスプーンでかき混ぜた。 「うん。行く、と言う表現は適切じゃないな、待つ、だろうか、いや違うな」  うーん、と考えながら神宮寺はさらに砂糖を二杯追加する、陽葵は見ているだけで胸焼けしそうだった。隣にいる春翔は存在感を消すように静かに座っていた。 「わかりやすく言えば千年ほど眠ってもらう」 「眠る、ですか……」  陽葵は自分が冷凍保存されて頑丈な箱に収められ、千年後に解凍される。何かの映画で観たことがあるようなシーンを思い浮かべた。 「正確に言えば生命活動を停止させるんだが、ピンとこないよなあ」 「硫化水素の応用ですか?」  気配を消していた春翔が突然喋ったことに陽葵は驚いたが、神宮寺もまた同じように目を見開いている。 「そう、そうなんだよ、よく分かったね。えっと」 「天野です」 「天野くんは科学に興味が?」 「はい、少し」  先程までのおどおどとした態度から一転、春翔は神宮寺と難しい話で盛り上がっている。完全に置いてきぼりにされた陽葵だったが、春翔の意外な一面に感嘆した。  それにしても――。  饒舌に会話する晴翔を横目で見ながら陽葵は不思議な感覚を味わっていた。懐かしい雰囲気、匂い、距離感、適切な表現が浮かばなかったが、なぜか彼の隣は安心する。頼り甲斐があるようには見えないのに、痴漢から助けてくれようとしたり。初対面の怪しげな男とすっかり意気投合したりと、少なくとも陽葵にとっては頼りになる存在だった。 「あのー」  永遠に話が終わりそうにないので陽葵は無理やり会話に割って入った。二人は楽しんでいたゲーム機を母親に取り上げられた子供のように嫌悪感をしめしたが、構わず続ける。 「その硫化なんたらの応用で千年後に目覚めますよね、その後はどうなるんですか?」  千年後の未来、まるで想像がつかなかった。 「ああ、スーパーコンピューターの試算によると西暦三千年の未来は人は不死になっている、あらゆる病気、老化を克服してるんだ」 「え、まさか富岳ですか?」  すぐに春翔が反応する、神宮寺は不敵な笑みを浮かべてその質問に答えた。また二人の世界に入られて陽葵はため息をつく。 「ふっふっふ、日本が誇る最高のスーパーコンピューター富岳、実はその上位互換があるのだよ」 「えー! 世界No.2の富岳より上ですか?」 「ああ、富岳のサイズはそうだな、大体、大型の冷蔵庫くらいか」  神宮寺はついに立ち上がり両手を使ってサイズ感を表現している。それをキラキラと目を輝かせて見る春翔と、冷めた目で眺める陽葵がいた。 「超スーパーコンピューター『銀河』のサイズはこのビルと同じくらいだ」 「えー!! やばいやばい、怪物じゃないですか」 「そうだ、まさにモンスター。『銀河』に弾き出せない計算式などこの世に存在しない」  これ以上は付き合えない、再び割って入る。 「その世界で私はどうすればいんですか?」 「ん、ああ、好きにすればいいよ」  神宮寺は興を削がれたように椅子に座り直してマグカップに口を付けた。 「好きに……ですか」 「そう、今の世界が嫌なら未来で自由に生きたら良い、不死の病なら未来で治したら良い、命は尊いんだ、大切にしなきゃだめだ」  死の恐怖がない未来、陽葵が存在し続ける世界。まさに理想郷。この話が本当ならば。 「で、どうする?」  唐突に答えを求められて尻込みした。そんな簡単に決められない。 「あ、あの、もしそこに行くとなると現代の私はどうなるんですか?」  行方不明、失踪、誘拐。陽葵が突然いなくなったら両親はどうするだろうか。普通の親なら警察に相談するだろう。でも私は――。 「日本全国の行方不明者数は年間で約八万人、一日に二百二十人がなんらかの理由で煙のように消えてしまう」  神宮寺は握った手のひらをパッと開いた。 「つまり、君たちが今日このままいなくなっても何ら不思議じゃない。まるで神隠しにあったようにね」  ニヤリと笑う神宮寺を見て、ここに来るまでの妙な道のりを陽葵は思いだした。あれは監視カメラや人目につかない場所を選んで誘導したのではないか。そう考えると一見無害にみえた神宮寺が得体のしれない組織の一員のようで怖くなる。 「僕は行きます」  春翔はハッキリと言った。その顔には決意が込められている。何が彼を即断させるのだろうか、いつの間にか陽葵は春翔に興味を抱いていた。 「おお、素晴らしい。是非未来の世界でも科学について談義しようじゃないか」  神宮寺は手を叩いて破顔した。白い歯が見える。 「え? 神宮寺さんも行くんですか」  春翔の問いに「あたりまえじゃないか」と神宮寺は答えた。なぜか少し安心する。 「まあとりあえず施設を見学してみないか? それからゆっくりと決めたらいい」  マグカップのコーヒーを飲み干した神宮寺が立ち上がった、つられて陽葵と春翔も立ち上がる。大股で歩き出した背中を追って部屋を出ると神宮寺は先ほどのエレベーターを呼び出した。
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