4. 声だけで

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4. 声だけで

 マンションの前の通りを東に向かって歩いていく。 のんびり、通りに沿って並ぶ店のウインドーをのぞいたり、道の向こうの店を 眺めたりしながら歩く。 ちらりと覗くと、おいしそうなパンが並ぶ店もあって、入ってみることにする。  店の雰囲気やおいしそうなパンの香りに魅かれたせいもあるけど、なんだか 直感的に、この店は麻ちゃんが好きそうな気がしたからだ。  並んでいるパンはハードタイプのパンが多い印象だ。 僕は胡桃の入ったミニバゲット、ベーコンや野菜ののったデニッシュ、 フルーツとカスタードクリームがのっているパンなどいくつかをトレーに載せて、レジに向かう。  レジ前には、ちょっとした洋風総菜も並んでいる。 (野菜食べなあかんよ、大ちゃん。) 妹の萌の声が聞こえた気がした。 僕が野菜ぎらいなので、萌はいつも、僕の皿に野菜を入れたがる。  特に、ピーマンを見ると、なぜか必ず僕の皿に入れようとする。 そのたびに、(いや、これは私がピーマン嫌いやからとちゃうで。ピーマンにはめっちゃいい成分があるから、大ちゃんにしっかり栄養つけてほしいという、私からの愛や。)と萌は言うけれど。 調子に乗って、5個ほどトレーに載せてしまった。 今日の昼ごはんと晩ごはんができた。  袋を下げて、大学キャンパスに入る。 広い開放的な門を通る。 入るとすぐの正面に、大きな木がある。 この木は、この大学のシンボルツリーでもある。 あちこち建物を見て歩く。 とても古い建物もあるけれど、歴史を感じさせる風格があって 僕は、ここに来られた喜びを静かにかみしめていた。  そのときだ。 前方から、大きな声がした。 「あ、大吾!? 大吾やん!」 声の主は、声を発すると同時に、僕に向かってダッシュしてくる。 四橋和也だ。 「和也、おまえこそ、なんで? 携帯全然つながらへんし、昨日、家の方に 電話したら、お母さんが、今旅行中ですって」 「おお。そやねん。旅行中やってんけど、ついさっき帰ってきて」 「いや、ほんま携帯まるでつながらへんし、どないしたんやて心配しとってんで」 「いやあ、ごめんごめん。ケータイな、家に忘れて出かけてしもてん。 それでも、ま、えーか。と思って旅行行ってんけど、やっぱ気になるし不便やし。で、早めに切り上げて帰ってきてん」 「そやったんか。ま、でも、会えてよかったわ」 「ほんまやな。もう、こっちに引っ越してきたんやろ」 「うん。昨日な」 「そのうち、あそびにいってもええ?」 「え、……ええよ」  一瞬迷ったのは、麻ちゃんのことを思い出したからだ。 でも、声だけだし、和也のいる間は、彼がびっくりしないように 話しかけないようにしてくれるだろう。 僕が一瞬ためらったのを、部屋が片付いていないせいだと思ったのか、 和也が言う。 「あ。ひっこしたばかりやし、部屋まだ散らかってるん? なんなら手伝うで」 「いや、ありがとう。兄貴と萌が来てくれたから、おおむね片付いてはおるねん」 「そっか。それやったら、ヘタしたら、おれのとこの方が散らかってるかもな。ははは」 和也は笑った。たぶんそうかも、僕も笑う。 「今日はいったん実家帰るけど、またそのうち、一緒にご飯食べにいこな。 ラーメンのめっちゃうまいとこあんねん。ギョーザもな」 と嬉しそうに和也は言うと、そいじゃまたな!と機嫌よく去って行った。  元気いっぱいの彼がいなくなると、急にあたりに静かな空気が戻った。 彼は、学部からこの大学に通っているので、この春で、京都暮らし5年目だ。 やりたいことがあるから、一年卒業を見送って留年することにしたと言っていた。  一年だけ許して、と必死で親を説得したらしい。 彼のやりたいことがなんなのかは、僕はまだ知らない。 そのうち言うから、待っててな、と親にも話していないらしい。 なんにせよ、和也はアイデアと行動力にあふれたパワフルなやつなので、 そんな彼のやりたいことが何なのか、僕はけっこう楽しみにしている。  木陰のベンチが空いている。 座って、空を見上げる。木が高いと、空も高く見えるんやな。 木の枝と、重なり合う葉っぱの間からこぼれ落ちる光が眩しい。 緑が透けて見える。 風は少し冷たい。 でも、春の空気は、かすかに花のにおいを含んでいて、胸の奥は 新しいスタートへの期待なのか、小さな灯りがともったようにあたたかい。  しばらく、春の空気と日差しを楽しんで、僕は、元来た道をたどる。 途中コンビニによって、野菜ジュースとお茶を買って部屋に戻った。 「ただいまー」 「おかえり、大ちゃん。大学、行ってみた?」 「うん。 緑が気持ちよかった。それと、これ、パン屋さん、寄ってみた」 袋を持ち上げる。  そういえば、どちらに向けたら見えやすいとかあるのかな? 「あ! そこのパン屋さん、すっごく美味しいの。 3日に1回は買ってた。 どれ買ったの?」  思った通りだ。麻ちゃんは興味津々だ。僕は、袋から1個ずつ買ってきたパンを取り出して、リビングのテーブルに並べる。 「あ、これこれ。この野菜のいっぱいのってるデニッシュ、めっちゃ好き」 麻ちゃんは、基本標準語だが、時々、関西弁っぽい表現を使う。 「関西弁も使うんやね」 「うん。ちょこっとね。でも、何か微妙にアクセントが違うとか、言い回しが ちょっと不自然とか言われるけど」 「出身はどこなん?」 「川越市」 「埼玉県?」 「うん。昔ながらの街並みもあったり、新しくておしゃれな店もできたりして、にぎやかだけど、落ち着いた素敵な町」 「そうか。えらい遠くから来てたんやね」 「うん。大学がこっちで、それで採用試験もこっちで受かったから」 「じゃあ、京都生活けっこう長いね」 「そうだね」  麻ちゃんの言葉が、短くなる。小さなため息が混じる。 (もう、生きてはいないってことだけわかってる。)  昨日、そう言った彼女の声が、頭に浮かんだ。 「ごめん。大丈夫?」 「うん?大丈夫大丈夫。しかたないもの」  声に微笑みが含まれている気配を感じて、少しホッとする。  声だけなのに、不思議と、僕には彼女の表情が見えるような気がする。 もちろん、僕は彼女の顔を知らない。 だから、なんとなく笑った気がするな、ちょっとしょんぼりしてるな、とか 雰囲気がわかる、という意味だが。  なんとなく沈んでしまった空気を切り替えようと、僕はたずねる。 「……ところで。麻ちゃんからは、どんなふうに僕が見えるん?」 「そうねえ。なんとなく、目で見るっていうより、存在を空気ごと感じるっていうか、でも、もちろん、今、大ちゃんが前髪を少し触ったなとかもわかるから、普通に見えてるのと変わらないのかもしれない」 「この部屋の中のどこにいてもわかる?ていうか見える?」 「その気になれば。でも基本、トイレとお風呂は見ないようにしてる」 「そっか。よかった。ちょっと恥ずかしいなと思っててん」 「うんうん。わかる」  あ、頷いている。声だけで、彼女の動作が目に浮かぶような気がする。 「大ちゃん。ごめんね。せっかくの一人暮らしなのに、私がじゃましてるよね」  僕は、どちらを向いたらいいかわからないけど、とにかく笑顔を見せる。 「僕は、ぜんぜんかまわへんよ。麻ちゃんと話すの、慣れたしな。いっぱい いろんな話しよ」 「ありがとう。大ちゃん」
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