第一話 青い春の話(敷島と加賀)

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 ふたりで研究棟を出て、敷地内にある付属病院まで歩いていく。三月に入ってようやく春めいてきていた。しかしよく晴れた朝の空気はまだ冷たくて、Tシャツにぺらぺらの白衣では肌寒い。敷島は白衣のポケットに手を突っ込み、背を丸めて歩いた。そのうち、よく知っている特徴的な花の匂いが漂ってくるのに気づいた。近くの植栽で沈丁花が花をつけている。大ぶりの株で花数も多い。 「加賀、世間はもう春だ」 「早いな」 「研究室にばかりこもっていると、季節の移ろいにも疎くなるな」 「……うん」  加賀が生返事をして、沈丁花の前で足を止めた。敷島も加賀に並んで花を眺める。そこでようやく、加賀が参加している治験の患者に思いいたった。 「今日は、彼のところにも行くのか」 「光流(ひかる)君のことか」 「うん。様子はどうだ」 「なかなか安定しない。ネコ科の形質が強く出ていて、特にスイッチングの反動がつらそうなのは相変わらずだ」 「何歳になった?」 「今年、十八歳になる」 「トリガーは花の匂いだったっけ。百合、沈丁花、金木犀……」 「花の匂いだけではないらしい。いつ、どこでスイッチングが起きるか、本人も周りも予測がつかないのがきつい」 「……そうだろうな」  敷島がぼんやりと相槌をうっている間に、加賀は白衣をひるがえして歩いていく。黙ってその背中を追った。  ◆  付属病院では、ネコ科の形質発現やスイッチングについての研究のために、通院や入院での臨床試験が行われていた。敷島は獣医師として、加賀は遺伝学の研究者として、それぞれいくつかのプロジェクトに参加している。  ふたりは通用門から病棟に入り、エレベータ―で最上階に上がった。まだ新しく、開放的な吹き抜けや木質建材の意匠が洗練された病棟だった。なかでもこのフロアは、病院というよりはシェアハウスか合宿所のような雰囲気だ。ここに入院するネコ科の患者たちは、行動や食事にいくぶんの制限はあるものの、ほとんど普段と変わらない生活を送る。  加賀と敷島は病棟のいちばん奥の個室の前まで来た。加賀はドアを静かにノックし、ひと呼吸置いてからそっと開けた。 「おはよう、光流君」  部屋に入ると、窓際の一人掛けソファに座った小柄な少年がこちらを見ていた。縁なしの眼鏡をかけた、知的な印象の少年だった。膝に文庫本を広げている。加賀の顔を見て嬉しそうな顔をした。 「おはようございます、加賀先生」 「調子はどうですか」 「やっと元どおりになってきました」 「それはよかった。先週のスイッチングの反動、きつそうだったもんね」 「熱が三日も下がらなかったのは久しぶりでした。……子どものとき以来かな」 「顔色もよさそうだね。安心したよ。寝てなくていいの?」 「せっかくシャワーを浴びたから。久しぶりにパジャマを脱ぎたくて」
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