第一話 青い春の話(敷島と加賀)

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 加賀はその後、数人の患者と短い会話を交わしたのち、病棟をあとにした。もときた道を歩く加賀はずっと無言だった。敷島は彼にそっと声をかけた。 「光流君の気持ち、俺はわからんでもない」 「……」 「ずっと猫でいたい、か。確かにスイッチングの反動はきついからな」 「そうだな」 「光流君は、何か複雑な事情を抱えているのか」  ――人間の記憶も、いりません。どうせつらい記憶しかないんだ。  光流の強い言葉がよみがえる。彼の過去に何があったのだろうと敷島は思いをはせた。加賀が淡々と小さな声で教えてくれる。 「彼は虐待サバイバーなんだ。児童養護施設にいたが、この一年ほどは自らの意思でずっとここに入院している。彼の親権者は音信不通。つまり天涯孤独だ。これからの自立も大きな課題なんだよ」 「……そうだったか」  ネコ科のスイッチングは体力も精神力も消耗する。光流は年齢のわりに小柄で、身体もあまり丈夫ではなさそうだった。臨床試験の身体的負担も決して軽いものではないだろう。どうすれば、人間と獣身、猫への転換をコントロールできるのか。薬なのか、訓練なのか。それが敷島の研究テーマの本質だった。光流のようにスイッチングに苦しむネコ科の人々の役に立ちたいと願うのはもちろん、敷島本人が切実に知りたいと願っていることだった。  研究所の入口まで戻ってきて、加賀が敷島を振り返った。洗いざらしの黒髪がさらさらと額にかかり、春先の冷えた風に巻き上がる。  敷島は彼の表情に不意を突かれた。加賀は澄んだ笑みを浮かべていた。(はす)に構えた皮肉っぽい言動をしがちな彼にしては珍しい、子どものように無邪気な笑顔だった。 「患者に同情してはいけないとわかってるんだがな」 「……加賀」 「どうして俺は、こんなにも無力なのかと情けなくなるときがある」 「そんなことはない。……お前は優秀な研究者だ」  敷島は即座に彼の言葉を打ち消した。しかし、敷島自身も同じようなもどかしさを抱えて生きている。否定の言葉に力をこめることができなかった。そしてふだんから頼りきっている彼がみせた意外な一面に動揺した。いったいどんな言葉で励ませばいいのか。  さらに敷島をうろたえさせたのは、自分が彼に対して同僚以上の感情を抱いているとはっきり気づいてしまったことだった。加賀は、ネコ科の当事者でスイッチング持ちの自分をいつも気にかけてくれる。敷島は彼をかけがえのない友人として慕ううちに、いつのまにか深く心を寄せるようになっていた。そのことを今さらのように自覚して戸惑った。 「加賀、……俺は……、お前を心から頼りにしている」 「そんなふうに言ってくれるか」 「あたりまえだ。当事者としても、友人……同僚としてもだ。だからそんな弱気なことは言わないでくれ」  敷島は「友人」と言いかけて訂正してしまった。敷島が加賀に抱くのと同じ感情を、加賀も持ってくれているかどうか確信はないのだ。だから「同僚」と言い換えた。加賀は大きな声を出した敷島をぽかんと見つめていたが、すぐにいつもの皮肉めいた表情に戻ってしまう。そして小さな声で呟いた。 「同僚として……か」  しかしその呟きを敷島は聞きのがした。加賀を励ましたくて、自らの揺らぐ感情を認めたくなくて、敷島はついおどけた口調で話をそらしてしまう。 「自信をなくしているひまがあったら、俺の論文のサンプル収集に協力してくれよ」 「そうだな。でも、何でもかんでも俺に頼るなよ」 「冷たいなあ」 「さて、敷島。さっきの弱音は聞かなかったことにしてくれ。俺は仮眠してくるよ。じゃあ、またあとで」  加賀はそう言って敷島の肩をポンポンと叩き、足早に自動ドアをくぐって研究所内へ入っていってしまった。  第二話「たもとを分かつ」に続く
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