第一話 人類ネコ科

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第一話 人類ネコ科

 ここで新居が決まらなかったら、しばらくはネットカフェを転々とするか、まったく不本意ながら心当たりに頭をさげて居候させてもらうか。三月も残すところあと数日、桜も咲きはじめている。うららかな陽気の春の午後、真咲(まさき)は切羽つまった気持ちで、たまたま見つけた路地裏の小さな不動産屋に飛び込んだ。  古ぼけた雑居ビルの一階にある、いかにも昔ながらの「街の不動産屋」だ。手動のガラス扉を、まるで古い西部劇のワンシーンのように豪快に開けて入る。受付に座っていた若い店番の男が驚いて顔を上げた。真咲はそんな彼の様子にも構わず希望する賃貸物件の条件を早口で述べ、差し出された受付票を奪うようにして必要事項を殴り書いた。  しかし受付票を挟んだバインダーを彼に返したとき、奇妙な質問を受けて戸惑うことになる。 「あの、大変失礼なことをお伺いしますが、もしかしてネコ科の方ですか」  自分とたいして歳も変わらなさそうな不動産屋の男は、真咲が記入した受付票に目を落としたまま、たいして失礼とも思っていなさそうな淡々とした口調でおかしな質問をする。  猫派の方ですか、と聞かれたのだろうか。猫は好きだが、と訝しく思いながらも真咲はこう答える。 「いえ、猫は飼いません。普通の学生向け賃貸を探してます、急いでるんです」 「いえ、ペットの話ではなく」  不動産屋の彼は、受付票から目を上げずに話し続ける。長く伸ばした前髪と黒いセルフレームの眼鏡にさえぎられて表情は読み取りにくい。 「黒羽(くろば)さんが、ネコ科の方ではないかと」 「……たぶん、ちがいます。ヒト科です」 「これまで健康診断などで何か指摘されたことはありませんか。眼科で見え方について何か言われたりとか。あとは食物アレルギーとか、体温が高いとか、寒がりだとか」  冗談には冗談で返したつもりなのにスルーされたあげく、ずいぶん立ち入った健康面のヒアリングをしてくる。賃貸物件を探すにあたって必要な情報なのだろうか。真咲はそこではじめて、不動産屋の男の風貌をまじまじと見た。  おそらくはアルバイトとして雇われているのだろう、と真咲は見当をつける。ストレッチが効いていそうな紺のテーラードジャケットの下に、濃灰色のTシャツという服装は垢ぬけていて、こんな路地裏の古ぼけた不動産屋には不釣り合いな気がした。顔立ちや骨格も端正で、すっきりとした細面に整っている。バインダーを持つ指も形よく長い。おそらく上背もそこそこあるのだろう。全体に見た目のいい男であり、ふざけてもおらず、いたって真面目で淡々としている。真咲はにわかに彼に興味を持った。だから調子を合わせることにする。 「あまり病院にはいかないので、そういう指摘は受けたことがありません」 「そうですか」 「あの、ここで紹介される物件は、健康状態の申告が必要なんですか」 「そういうわけではありませんが」  受付の男は話しながら、傍らに置いたノートパソコンのキーボードを叩いて受付票の情報を入力している。リンゴのマークで有名なパソコンメーカーの最新モデルで、真咲にはとうてい手の届かない高級品だ。その洗練されたデザインも、キーボードを叩く彼の指の鮮やかさも、この寂れた不動産屋の雰囲気にそぐわない。ますます関心をひかれた。
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