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第二話 どうぶつのお医者さん
タクシーに乗っている五分ほどの間に、真咲は不動産屋が、ネコ科について説明してくれるのではないかと期待した。しかし彼は終始、無言だった。まるで乗車しているのは自分ひとりだとでもいうように、ずっと窓の外を眺めている。真咲はこうした場面での沈黙には慣れていない。何か雑談でもしたほうがいいのかと気をもみ、余計なおしゃべりは嫌われるだろうかと悩み、すっかり疲れきったころ、タクシーは目的地に到着した。真咲はクリニックの看板を見上げてぽかんとする。
――しきしま動物病院。
クリニックは小ぎれいなビルの一階にあった。正面玄関は大きなガラス張りだったから、待合スペースに小型犬や猫を抱いた人たちの姿が見える。
――ネコ科の人間は、獣医にかかるのか?
「黒羽さん、入口はこちらです」
ぼんやりと立ちつくす真咲を促して、不動産屋はクリニックの正面玄関の脇にある小さな自動ドアから中に入っていく。通用口のように目立たない、薄暗いエントランスだった。
「正面玄関はまっとうな犬猫専用。こちらがネコ科のヒト専用の入口です」
狭いエレベーターに乗って三階へ上がる。扉が開いたらすぐ目の前が受付カウンターだった。詰襟の白衣を来た若い男が座っていて、こちらを見ている。
――あっ、まただ。
真咲の目の前で強い光がフラッシュして消える。消える直前、受付の彼が猫に見えた気がした。
何という種の猫だろう、と真咲は思う。白い被毛に不規則な茶のぶちがあって、どこにでもいる平凡な猫のようだった。しかし彼がカウンターの奥で「こんにちは」と言いながら立ち上がるころには、もう猫には見えなかった。ごく普通の、愛想のよさそうな人物だ。彼は明るく不動産屋に声をかけた。
「こんにちは、澄々木さん」
不動産屋の名前は澄々木というのだと、真咲はひそかに胸に刻む。
「先ほどお電話した件です。黒羽さんをお連れしました」
「黒羽さん。保険証か、身分証はお持ちですか」
受付の男性に尋ねられて、真咲は束の間、ためらった。しかし、ごまかすのは難しいと覚悟して国民健康保険証を出す。賃貸物件を契約するなら避けて通れない。受付の男性は真咲が差し出した保険証を受け取り、券面に書かれた名前を見たのち、ちらりと目を上げてこちらを見た。真咲は相手が何か言ってくる前に、あらかじめ用意していた言い訳を早口で述べる。
「あの、親が離婚したので苗字が違うんです。手続きが間に合ってなくて。俺のほんとの名前は、黒羽……です」
「そうでしたか」
「問題ありますかね」
「いえ、当院ではとりあえず大丈夫です。それよりも」
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