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クリニックの受付の男性は、真咲の隣に立っている澄々木の顔を見た。真咲も澄々木の反応をうかがう。保険証と異なる名乗りをする真咲が、このまま賃貸物件の契約をすんなり交わせるとは思えない。実際のところ、これまで足を運んだ不動産屋では微妙な顔をされたり、遠回しに紹介を断られてばかりだったのだ。
ところが澄々木はあっさりうなずいた、無表情のまま。
「賃貸契約も問題ありません。いくつか余分な書類を書いてもらいますが」
「本当ですか」
「店舗に戻ったらご説明します」
真咲はにわかには信じがたい思いで、澄々木の端正な横顔を見ていた。クリニックの受付の男性も「それならよかった」と笑いながら、真咲に簡単な問診票を差し出してくる。このクリニックと澄々木の間には信頼関係があるようだった。問診票を書いている間、不動産屋と澄々木の会話が耳に入ってくる。
「澄々木さんが付き添うとは珍しいですね。いつもは紹介だけして顧客を放り出すでしょ」
「そうですかね」
「きれいな雄猫さんだ。澄々木さんが好きそうな」
「何が言いたいんですか」
「いえ、別に」
ぶっきらぼうな澄々木の様子に対して、受付の彼はクスクス笑って楽しそうだ。彼ら二人の間柄は、信頼関係というよりも友人どうしのような、もっと気の置けないものかもしれない。
「敷島先生はまもなくいらっしゃいます。お待ちください」
受付の男性は真咲から問診票を受け取ってバックヤードに消えた。澄々木が待合スペースのソファに腰を下ろしていたので、真咲も彼の隣に座った。ただし、ひと席ほどスペースを開けて。
澄々木は脚を組んだりせず、背筋を伸ばして浅く腰かけている。それは猫がすまして姿勢よく座っているさまを想像させた。
「本当はあんまり、付き添いはしないんですか」
ここでも沈黙に耐えかねて、真咲は澄々木に尋ねてみた。澄々木はちらりとこちらを見て答えた。
「まあ、そうですね」
「……そうですか」
沈黙。
待合スペースにはBGMもないので完全な静寂になった。
どこかで小さく時計の秒針が鳴っている。真咲も黙って自分の膝先を見ているしかなかった。落ち着かない数分間を過ごしたのち、やがてバックヤードで足音がして、受付の彼が顔を出した。
「黒羽さん、診察室へどうぞ」
真咲は立ち上がりざまに澄々木に軽く頭を下げ、小さな声で「いってきます」と口にした。澄々木も会釈を返してくれたが、やっぱり無言だった。しかし真咲は再び、視界の端で猫を見たような気がした。
きれいな青灰色の猫は「はい、いってらっしゃい」とでも言うように、悠然と長い尾を振っていた。
(つづく)
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