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医師はそこでキーボードを打つ手を止め、こちらに向き直ってもう一度にっこりした。そんな言葉とともにさわやかな笑顔を見せられても、どぎまぎするだけだ。真咲は思わず目をそらした。
「ネコ科の形質って、感情が昂ったときに出やすいんです。切実な問題ですよ。獣身をうまくコントロールして適度に楽しめればいいが、意識が飛んで、爪や牙でパートナーを傷つけてしまうこともある。だから去勢される方もいらっしゃいます」
「……去勢、ですか」
いきなりの強烈な言葉に、真咲はオウム返ししかできない。
「去勢にもいろいろあって、いわゆる“工事”、つまり外科的去勢のほかに、投薬去勢もあります。……ああ、ネコ科の形質は第二次性徴期ごろから男性にのみ発現するんです。まだ分かっていないことも多くてね。それでネコ科の皆さんには協力いただいていて」
「……あ、はあ……」
「もちろん去勢しても勃起はしますからセックスは可能ですよ。でもまあ、黒羽さんのような若い人に、いますぐ勧めることはしません」
そこに受付の彼がふたたび顔を出した。クリアファイルに挟んだ書類を医師に手渡す。
「ずいぶん速く結果が出たね」
医師はなぜか嬉しそうに、検査結果のシートを真咲にも見せてくれる。
「ほら。きれいにくっきり出てますよ」
示されたレーダーチャートを見ても意味不明だった。しかし各項目の数値が上限をきっちり指しているのが確認できた。
「澄々木君のところで賃貸契約をされますか? 診断書を出しますよ」
「……お願いします」
「それからこれは本来、任意なんですが。サリックスの入居条件のひとつなので」
そこで医師が言葉を切ったところで、また受付氏がトレイを持って現れる。阿吽の呼吸だと真咲は思った。
トレイには小さな金属片が並んでいた。よく見ると、それはさまざまなデザインのピアスだった。
「臨床試験の協力者には装着をお願いしています。見た目は片耳ピアスですが、つけっぱなしの検査機器と思ってください。脳波測定とか定期的な採血検査とか、そんな感じの」
真咲にはとくに異存なかった。これで住まいが確保できるという安堵で、ピアスホールを開けるくらい何でもないことだと思った。治験だろうが何だろうが、命をとられるわけでなし、と決め込む。小さなシルバーの丸玉ピアスを選び、医師がそれを装着機器にセットした。
「左耳でいいですか」
「別に、どちらでも」
耳たぶを軽く消毒された。冷たく柔らかい脱脂綿で撫でられて、敏感な真咲はひそかに身震いする。医師が「いきますよー」とのどかな声をかけると同時にバチンと大きな音がして、じわりと鈍い痛みが広がった。
「あとは受付でお待ちください。診断書をご用意します」
診察室を出るとき、ふと真咲は医師に声をかけた。
「先生もネコ科なんですか」
医師は、おや、という表情で真咲を見る。
「わかりますか」
「白い猫に見えました。何の種類の猫なんですか」
「ネコ科は、一般的な猫種の分類はしません。主観的な見た目の話です」
「……ふうん」
「黒羽さんは、綺麗な黒い猫ですね」
「そうなんですか。よくわかりません」
「今後は何か困ったことがあったら、いつでも来てください。予約は忘れずに」
「困ったこと?」
「朝起きられなくて困るとか、アレルギー体質とか、セックスのときに意識が保てないとか。投薬治療を希望しないなら、ネコ科向けのサプリメントなんかもありますから」
「はい。ありがとうございます」
そうして真咲は診察室を出て、受付で診断書を受け取った。診察料や文書料を支払おうとして「各種医療費は免除されます。黒羽さんにはネコ科の臨床研究にご協力いただきますから」と告げられて驚く。しかし倹約を強いられるであろう学生生活には願ってもないことだった。真咲は、来たときと同じように澄々木に伴われ、しきしま動物病院を後にした。
――第三話「仲間たち」に続く
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