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蜜柑の木
木登りをするには充分な丈はある。
昂矢は薄曇りの空を背景にして、その高くはない蜜柑の木を仰いだ。背伸びをしても、跳びつこうとしても届きそうで届かないその木の一番高いところにある実に手を伸ばした。昂矢は道具を使ってその蜜柑をもぎ取るのはなんだか許せなかった。目的を解決するための効率を優先することが成熟した大人であるならば、蜜柑に手を伸ばす頑迷さは昂矢の若さの表れであったのかもしれない。
もっと大きな樹のはるか上に生っている蜜柑の実をヒヨドリが啄んでは喧しい声を上げている。
もし歳が九つくらいの子供であったならば、その辺りに転がってある石を投げて、その蜜柑の実を落とそうとしたであろう。九つの子が実を落とそうと石を何度も何度も投げ続け、それがいつしか蜜柑の実に石を当てる遊びに変わって行くように、手を伸ばし、ちょうど実をもぎ取ることが出来ない事が昂矢にとっては苛立たしくも楽しい遊びに変わっていた。
昂矢は何度も跳び上がった。強く踏みしめられた冬の枯れた草の中に、僅かに残った緑の草が昂矢の足跡に踏みつけられていた。
晴れの日のみに姿を露わす遠くの山は雪を被り、そこから流れてくる風は颪となり蜜柑の木と葉を微かに揺らす。冷え切った指先とは裏腹に、何度も跳び上がる昂矢の首筋にはその風が心地く、また煩わしかった。
昂矢は何度も同じ事を繰り返し、深く屈んで跳び上がり、そして何度目かに中指の先が蜜柑の実の下腹を微かに触った。
もう一度深く屈んで跳び上がり再び中指が実を揺らした。中指の感触に木枯らしの心地よさも煩わしさも忘れた昂矢は、踏み固めた冬の草の助走し獲物(蜜柑の実)をめがけて飛びついた。
喧しいヒヨドリがさらに喧しい声を上げ逃げるように飛び立った。
昂矢の掌は獲物を捕らえ、実に引きずられた枝が弓のようにしなる。「ガサっ、プチっ」という感覚と音が昂矢の手から腕を伝った。枝はガサガサ葉を揺らし元の高さに戻っていく。
昂矢の手の中は濡れた感触と柑橘の匂いが残った。
昂矢は自分が掴んだ実を見つめた。
仰ぎ見て下からは見えなかった蜜柑の実の姿を今は上から見ていた。
実は熟れ過ぎていた。
昂矢は何度も跳びつくうちに届きそうで届かない蜜柑に憧れを抱いていた。
上から見たその蜜柑の皮は水疱で腫れ、緑錆のようなカビがあり、強く握った指の間からその汁が滴った。
昂矢は怯えるように握っていたものをゆっくり手放した。足元にベチャっと落ち潰れた。
昂矢は指を開きベタついた手を恨めしそうに睨んだ。
捨てられた蜜柑からややカビた果汁が滲み出て、踏みつけた枯れた冬の草を湿らせていた。
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