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翌朝。忠はチャイムの音で目を覚ました。やっと妻が帰ってきたのかと、忠は勢いをつけて玄関のドアを開けた。
「おい! お前、今までどこ行って」
「牧野忠さんですね。わたくし、弁護士の霧崎と申します」
「は、あ……?」
ずいっと目の前に出された名刺に、忠はうろたえた。
「本日はお休みだと伺っております。少々、お話よろしいですか」
「え、えぇ。構いませんよ」
忠は内弁慶だ。外面は良い。弁護士という肩書に怯み、表面上は丁寧に接したが、内心は動揺していた。
弁護士が、いったい何をしに自宅まで。
霧崎を家に上げ、ダイニングのテーブルに着かせ、茶を出す。相手が軽く礼をしたのを確認して、忠も向かいに座った。
「それで、何の御用ですか」
「単刀直入に申し上げますと、奥様から、離婚調停を任されております」
「はぁ……?」
寝耳に水、といった様子の忠に、霧崎はいくつかの写真を取り出した。
「これは、忠様で間違いないですね」
それは、不倫相手たちとの写真の数々だった。相手はどれもばらばらで、少なくとも十人以上いる。
「え、えぇ。そうですが」
「ということは、この女性たちと不貞行為があったことは認めるのですね」
「ちょ、ちょっと待ってください」
不貞行為、と言われて、忠はピンときた。まさかとは思ったが、妻は不貞行為を理由に離婚しようとしているのか。
オープンマリッジを言い出したのは、妻の方からだ。契約書もきちんと交わしている。原本を持っているのは妻の方だが、忠は念のためにコピーを個人的に保管していた。
馬鹿な女だ。きっと、原本を隠せばなかったことになると思っているのかもしれない。そんな簡単な手に引っかかったりはしない。
「これ、見てください」
忠は契約書のコピーを霧崎の前に出した。
「私と妻は、オープンマリッジといって、このような契約書を交わしています。これはコピーですが、ほら。二人のサインもちゃんとあるでしょう。私たちは、お互い合意の上で不倫を認めていたんです」
忠の訴えに、霧崎は表情を変えずに、契約書の二つ目を指で示した。
「こちら、ご覧いただけますか」
「え?」
「関係を持った相手の素性を互いに報告すること――とありますね。あなたは、奥様に、きちんと相手の女性のことを伝えていましたか?」
「も、勿論です! 写真を見せて、名前も」
「お相手、全員?」
「――……それ、は」
忠は言葉に詰まった。途中から面倒になって、全員を報告はしていない。
「この写真の女性たち。奥様は、どなたのこともご存じでないそうですよ」
「そ、それは!」
忠は再度写真に目を落とした。もはやどれが誰だかも覚えていないが、確かに彼女たちは比較的新しい不倫相手たちで、報告はしていない可能性が高い。
「ほ、報告は、しました! 妻が覚えていないだけで」
「奥様は、報告された際に、お相手のことを全て写真で記録されています」
「そんなの、消してしまえば、言ったか言わないかなんてわからないじゃないですか」
「ではあなたは、報告した時のことを証明できますか? お相手の写真は全てとってありますか? お名前の記録は?」
忠は黙った。途中から報告をさぼったから、全ての女性の写真はないし、もはや名前も覚えていない。
「ですが、そもそもオープンマリッジというのは、不貞行為を不問にする、という契約でしょう。それを認めた時点で、私の方に責任などないはずです」
忠の態度に、霧崎は溜息を吐いた。
「あのですね。そもそもオープンマリッジとは、当人同士の約束事であって、法的拘束力はないんですよ。契約書も素人の手作りで、弁護士立ち合いの元作成されたものでもない。しかもあなたはその約束事すら破っている。これであなたに勝ち目があるとお思いですか」
忠は言葉に詰まった。弁護士相手にこれ以上やり合うのは分が悪い。
「妻と、話をさせてください。二人で話し合います」
「残念ながら、奥様はあなたとはお会いになりたくないそうです。わたくしが一切を任されております」
「それは一方的すぎやしませんか」
「あなたのしたことを考えれば、当然だと思いますが」
それで納得できるはずがない。妻が言い出したことなのに。自分が悪いはずはない。直接話せば、絶対に妻だって説得できる。
あれほど自分を理解してくれる女はいない。あれほど手際よく面倒を見てくれる女はいない。こんな自由に不倫させてくれる寛大な女はいない。すんなり手放すには、些か惜しい。
「妻の気持ちを考えれば、当然です。ですが、どうしても、直接会って謝りたい。きっと、何か誤解があるんです。許してもらえるまで、私にできる限りのことをします。ですから、どうか、お願いできませんか」
忠は真摯に頭を下げた。このくらいはお手のものだ。
そんな忠をじっと見つめて、霧崎は口を開いた。
「一つ。奥様から、条件を預かっております」
「条件……?」
「簡単な質問です。それに答えられたら、あなたとお会いになると」
「本当ですか!」
「ただし。答えられなかった場合は、慰謝料を請求するそうです」
慰謝料。その言葉に、忠は怯んだ。不倫にさんざん使い込んだので、忠の貯金はほとんどない。
「逃げ道はあります。もし、質問に挑戦せずにこのまま離婚を認めるのであれば、奥様とは会えませんが慰謝料の請求も無しです」
忠は迷った。回答を誤れば、慰謝料。挑戦しなかったら、離婚。どちらにせよ、忠は何かを失う。
何も失わないためには、質問に正解するしかない。霧崎は簡単な質問だと言った。弁護士が、ここで嘘は言わないだろう。
「わかりました。質問を、受けます」
真っすぐ見据えた忠に、霧崎は質問を投げかけた。
「では、お尋ねします。奥様のお名前は?」
忠は拍子抜けした。なんだ、そんなこと。本当に、えらく簡単な質問だった。
そんな、まさか、結婚相手の名前がわからないはず。
そんな、はずが。
「――……」
忠の喉が引き攣る。
待て。待ってくれ。わかる。絶対、わかるはずなんだ。だって何度も呼んでいた。
――本当に?
最後に妻の名前を呼んだのはいつだったか。彼女のことを、名前で呼んでいただろうか。家の中だから。二人しかいないから。名前で呼ばなくても、呼びかければ相手のことだとわかった。
自分が呼んだ女の名前は、不倫相手の名前ばかりだ。いくつもの名前が頭を巡るのに、どれが誰のものかわからない。
スマホの登録名は『嫁』だ。そもそもカンニングは許されないだろう。ああ、さきほど契約書のコピーを渡すんじゃなかった。あれは既に伏せられている。あそこには、妻の名前が書かれていたのに。
思い出せ。今さっき、目にしたはずだ。
「あ」
張りついた喉を、無理やり震わせる。
「――明美」
霧崎は、黙ったまま目を伏せた。
――外れた。
忠は一気に足元から崩れ落ちるような気分になった。エレベーターが高速で降りる時のような、奇妙な浮遊感が襲う。
「残念です。慰謝料の請求については、後日改めてお話に伺います。ひとまず、本日はここまでで」
霧崎が席を立つ。呆然とした忠を残して、霧崎は律儀にお辞儀をして、部屋を出ていった。
残された忠は、強く拳を握りしめ、腹の底から吐き出した。
「くっそおおお!!」
あの女。あの女!
「騙しやがって!!」
オープンマリッジ、などと。耳障りの良い言葉を使って。
結局、これが目当てだったのだ。忠がボロを出して、慰謝料をふんだくれる時が来るのを待っていたのだ。
なんて強欲で計算高い女。
「いいさ。とことん争ってやる」
――俺は悪くない。俺は悪くない……!
忠の目は、ぎらぎらと憎悪に燃えていた。
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