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最初は似ていると思った。
でも違った。
彼女はいつも不安そうな表情で私を見上げる。
愛されることに慣れていないといった感じで。
天真爛漫で傍若無人だった環とは全く違う。
手を差し伸べたくなる雰囲気が凛にはあった。
【 喫茶 エス・コート episode1 side OIKAWA 】
良い歳をして恥ずかしいが、本気で誰かを愛したのは二度目だ。
環は娘のような感覚だったのでカウントしていない。
最初は20代の頃。相手は歳上の人妻。
叶うわけが無かった。
そして今回は親子以上に歳の離れた女子高生。
我ながら犯罪だと思う。
凛に出会ったのは春。雨の朝だった。
私は体調不良で道端に蹲っていた彼女に声を掛けた。
愛らしい顔は青ざめていて。
小さな身体が震えていた。
思わず抱き上げて店に連れ帰った。
その時に思った。
彼女は環に似ていると。
だから深入りしないようにした。
再び店に来た彼女を追い返そうとした。
なのに柳が迎え入れた。
私は彼女にどう接していいか分からなかった。
帰り道で彼女が男に襲われた。
私が忘れ物の傘を持って追い掛けていなかったらと思うとゾッとする。
呆然としている彼女を抱き締めた。
脱がされかけていた制服を整えようとしたら拒絶された。
私も男だ。警戒されても仕方ない。
店に戻った彼女は震えながら私たちに詫びた。
迷惑をかけて悪かったと。
彼女には何の落ち度も無いのに。
どうしてそんなことを言うのか。
彼女の両親は多忙。
一人娘の凛は物心ついた頃から『忙しい両親の邪魔をしてはいけない』と良い子を演じ、甘えることをしなかった。
だからだろう。
他者に迷惑をかけることを酷く恐れているのは。
依頼人を匿う為の部屋に凛を案内して。
独りになりたいだろうと部屋を出ようとする私に、彼女が微かに見せた不安。
それはすぐに消え、凛は笑みを浮かべた。
私には頼ってもいい。
そう伝えたら彼女は戸惑っていた。
傍に居て欲しい。
消え入りそうな声で彼女が言う。
私のシャツを掴む細い指先。
不器用な彼女の精一杯のSOS。
私は決めた。
何があっても凛を守り抜くと。
シャワーを浴び寝間着を着て、ベッドに横になった彼女はすぐに眠りに落ちた。
しばらく様子を見ていたが大丈夫だと判断し、私もシャワーを浴びて着替える。
部屋に戻っても彼女はよく寝ていた。
隣のベッドに座り本を読む。
私はあまり眠気を感じない体質。
だから徹夜も苦にならない。
時折、寝返りをうつ凛。
その度に布団を掛け直す。
意外と寝相が悪い。
きっと今朝の腹痛も冷えから来たものだろう。
誰も居ない家で独り。
寂しくない訳が無い。
それなのに不満を口にせず笑っている。
そんな彼女が堪らなく愛しく思えて。
思わず髪を撫でた。
凛は少し身動ぎしたが起きる気配は無い。
本当は抱き締めたかった。
抱き締めて言いたかった。
「俺にはどれだけ甘えてもいい」と。
彼女のどんな我儘も受け止めたいと思った。
夜の間に柳と甲斐が犯人の情報を集めまとめてくれた。
私も一通り目を通す。
なるほど。彼女の担任の教師か。
奴の過去の悪事の数々には閉口した。
凛が無事で良かったと思う。
今すぐ奴の頭を撃ち抜きたかったが。
処分方法を決めるのは凛だ。
私達は彼女に従うのみ。
仕事が終わればまた元の生活に戻る。
何も無かったかのように。
私の気持ちが報われることは無い。
報われてはいけない。
彼女には未来がある。
此処へ縛り付ける訳には行かない。
小さな窓の外が明るくなる。
なかなか目を覚まさない凛に不安を覚えた。
呼吸はしている。
若いからいくらでも寝られるのだろう。
長い睫毛。柔らかそうな頬、そして唇。
あまりにも無防備な彼女を前に妙な気持ちになる。
……駄目だ。我慢しろ。
彼女は昨夜あんなことがあったばかりだ。
もし私まで何かしたら、それこそ彼女の人生は終わる。
凛に覚醒の気配があった。
私は慌てて隣のベッドに腰掛け本を開く。
慌て過ぎて本が逆さまだった。
急いで上下を持ち直したところで凛が目を覚ます。
私は平然と朝の挨拶をした。
凛は少しの間、状況が飲み込めなかったらしい。
ようやく理解したのか恥ずかしそうに俯いた。
私は彼女に自分と柳が殺し屋であることを打ち明けた。
凛は少し驚いた様子だったが、意外とすんなり受け入れた。
私は部屋を出て彼女の身支度を待つ。
制服に着替えた凛が扉を開けた。
何故か目を合わせてくれない。
もしかして……眠っている間に私が何かしたと思っているのか?
内心とても焦っている私に彼女が聞いたのは、借りた下着をそのまま使っていてもいいかという確認だった。
なるほど。それは確かに聞きにくい。
やはり女手が無いのは不便だ。依頼人は、ほぼ女性。
環との暮らしで分かっているつもりだったが、どうしても行き届かない部分がある。
下着の件が解決し、凛はようやく少し安心したらしい。
私の後をついて歩く彼女の小さな足音。
それすら愛しいと思ってしまう。
居間に入るとソファに座った柳がニヤニヤしていた。
言いたいことは分かった。
柳は予想通り凛に私と寝たのか聞く。
彼女の反応が見たくて、私も止めなかった。
凛は耳まで真っ赤にして俯く。
初々しい反応。
男性経験は無さそうだ。
台所から甲斐が顔を出す。
柳が私の名前で呼び出したらしい。
何度も騙される甲斐も悪い。
甲斐は私の隣に居る凛を見た。
目を逸らさず凝視している。
甲斐の嫉妬は今に始まったことではない。
だから気に留めなかった。
この子は環に似ている。
甲斐の言葉に柳の顔から笑みが消えた。
私もきっと動揺していたと思う。
柳は明るく流そうとしてくれたが、凛は何故か辛そうだった。
彼女に問われ、私は環を重ねていたことを認めた。
凛は更に辛そうな表情になる。
死人と同一視されれば気分が悪いだろう。
きちんと説明しなくてはいけないと思った。
柳と甲斐に席を外してもらい、私は凛に環のことを話した。
環が仕事の相棒だったこと。
共に暮らしていたこと。
そして、私がこの手で殺したこと。
凛は涙を流した。
想定外の反応だった。
彼女が泣く理由は無い。
彼女は自分が環に似ているから、私が優しいのだと思ったらしい。
そんなことは全く無かった。
凛のことは環抜きで好きだ。
だが、正直に言える筈も無く。
私は若くて可愛い女の子が好きだからと誤魔化した。
柳と甲斐が戻り仕事の話になる。
私にとって凛は既に特別な存在になっていたが、彼女だけを特別扱いする訳には行かない。
柳も何故か凛を甘やかそうとしたから私はわざと厳しい態度を見せた。
その隙に甲斐が犯人の情報を凛に渡す。
そして凛を部屋に戻した。
犯人が信頼していた担任教師だと知って、彼女はどうするだろうか。
もしそのまま放置することを選んだとしても、私は奴を始末するつもりだった。
生かしておけば更に被害者が出る。
何より凛が危険だ。
凛が穏やかに暮らせること。
それだけが私の望みだった。
予想通り。凛は知らなかったことにする道を選んだ。
恐らく法外な依頼料を本気にしたのだろう。
もしかしたらまだ奴のことを信じているのかもしれない。
出会ったばかりの私たちより付き合いの長い、それも担任教師を信頼するのも仕方ない。
だがそれは、再び被害に遭う可能性も高いということだ。
表向きは彼女に従うことにする。
柳は粘っていたが、凛は折れなかった。
店の厨房で作業をしていると来客があった。
柳が応対に出る。
その様子を見ていた凛が慌ててしゃがみ込んだ。
私も柳の方へ視線を向ける。
そこには凛の担任教師が居た。
平然と何食わぬ顔で凛を迎えに来たと言う。
柳が止めようとしているが奴は店の中に入って凛を呼ぶ。
凛は立ち上がり、奴の方へ向かおうとした。
思わず後ろから抱き締める。
小さく頼りない身体を壊さないように加減をして。
彼女は私の手を振り解こうとしていた。
私は彼女と向き合い、唇を寄せる。
半分は本気だった。
彼女が受け入れてくれるとは思わなかったが。
案の定、彼女は身体を強ばらせた。
なるほど……キスも経験が無いか。
彼女のファーストキスを報酬として貰う約束をして仕事に入る。
これは私情だ。
凛を守ることが出来れば、それでいい。
店に出て奴と対峙する。
女子生徒に人気と言うだけあり、そこそこ整った容姿。
人当たりの良さを売りにしているようだが、私の挑発に段々と本性を表し始めた。
凛には聞かせたくない内容だった。
柳がフォローしてくれているだろうが。
奴の醜悪な演説を聞き、私の気持ちは揺るぎないものとなる。
凛を苦しめるクズに生きる資格は無い。
私が右手を上げると、すかさず柳が拳銃を投げた。
手に馴染む質感と重さを受け止め、私は奴の眉間に銃口を突き付ける。
たかが喫茶店の店員と私を見下していた奴の顔色が変わった。
私の殺意が本物だと悟ったらしい。
引鉄を引きたい衝動を抑えたまま、私は凛に決断を委ねる。
凛は奴に理由を聞いた。
奴は更に凛を貶めた。
私の怒りは頂点に達していた。
凛の許可が無くても奴を始末する。
右手の人差し指に力を入れようとしたが、先に柳が動いていた。
細いワイヤーで奴の背後から首を絞め上げる。
殺さない程度の力加減で。
苦しむ奴を、凛は無表情で見つめていた。
恐怖も怒りも通り越したのか。
冷たい視線。
今までの彼女とは別人のようだ。
これが彼女の本質なのかもしれない。
己のことはもちろん、他者の生死にも興味が無い。
悲しい娘だ。
希薄な魂を宿した人形のようだと思った。
彼女は奴を生かした。
しかし、この国から奴の存在を消した。
さすがに目の前で撃ち殺される姿は見たくなかったのだろう。
私たちは彼女の決断に従い、柳と甲斐が奴を世間的に抹殺した。
私と凛は港の防波堤に並んで立っていた。
夜風が冷たい。
凛も自分の冷酷さに気づいていた。
だから私は殺し屋になるよう口説いた。
凛は普通に生きたいと言う。
気持ちは分かる。
私だって出来ることなら普通に生きて家庭を持ちたかった。
私のことを忘れ今まで通りに暮らしたいと言うから、報酬を請求した。
凛はすっかり忘れていた様子で焦っている。
キスしようと思えば出来た。
それで終わりにすることも出来た。
しかし私は、彼女を縛り付ける方を選んだ。
手放したくは無かった。
凛が承諾するとは思っていなかったが。
彼女は受け入れ更に私にハグを求めた。
私になら甘えてもいいと理解してくれたのだろう。
喜びを隠し彼女の冷えた身体を抱き締める。
小さな身体を抱き上げて、私は歩き出した。
凛が私のコートの襟を握って身体を寄せる。
……無意識なのか。
だとしても私に好意的なことは確かだ。
今後に期待してしまう。
帰宅したら柳と甲斐が居間で酒を飲んでいた。
相変わらず仕事が早い連中だ。
疲れた様子の凛を先に休ませて私も宴会に加わる。
酒に弱い柳は早々に酔い潰れた。
酒癖の悪い甲斐が私に絡む。
これから凛と付き合うのか、とか。
僕は認めません、とか。
お前が認めようが認めまいが、私は凛の傍に居たい。
そう言ったら甲斐は黙り込んだ。
自分でもおかしいことは分かっている。
凛はまだ16歳。
子供も子供だ。
私も最初、凛に抱いているのは保護者的な感情だと思っていた。
傍に置いて守りたい。
それだけだと。
だが違う。
彼女に触れたい。そして許されるなら愛し合いたい。
結ばれたいと強く思う。
凛はきっと私を拒絶するだろう。
そうなったら立ち直れない。
だから下心は徹底的に隠すことにした。
父親より歳上の男から性的な目で見られたら、彼女も嫌な気持ちになるに決まっている。
甲斐もソファに倒れ込んで寝てしまった。
私もしばらく一人で飲んでいたが、気付いたら眠りに落ちていた。
翌朝。
凛が2階から降りて来る足音に目を覚ます。
彼女は散らかったままのテーブルを片付け始めた。
私は寝ているふりをして様子を見る。
一人暮らしだから家事も慣れたものだ。
彼女は柳と甲斐が掛けている薄い毛布を掛け直してから、部屋の隅に置かれているもう一枚を手にして私に掛ける。
優しさに感動していると彼女の指先が頭に触れた。
たまたま当たっただけかと思ったが、明らかに髪をかき上げていた。
……何をしている。
視線を感じたが起きる訳にも行かず、ジッと耐える。
謎の行動の後、凛は台所で食器を洗い始めた。
甲斐が起き上がり台所へ向かう。
甲斐は凛に過去のことや現在のことを話していた。
私の口からは言い難いことも。
凛はどう感じただろうか。
彼女自身は私達との同居を決心してくれたようだ。
しかし、離れて暮らす両親には言い出せずにいた。
娘が見ず知らずのおっさん2人と一緒に暮らすなど、まともな親なら認めないだろう。
何か方法は無いかと3人で考えていると、来客があった。
無遠慮な足音でそれが柳の養母・一子さんだと分かる。
彼女は凛を見て溜息をつく。柳が連れ込んだ女だと思ったようだ。
柳は私が拾った女子高生だと説明する。
本当のことなので否定はしなかった。
一子さんの表の顔は世界的に有名なデザイナー。
彼女からの頼みなら、凛の両親も許してくれるかもしれない。
そう考えた私は一子さんに凛の両親の説得を頼む。
一子さんは私が凛に執着する理由を環に似ているからだと誤解した。
柳が助け舟を出してくれて、凛自身の気持ちも確認した一子さんは両親へ手紙を書いてくれた。
私の存在には一切触れていない。
少し寂しかったが不要な情報だと納得する。
無事に両親の許可が出て、凛を迎える日がやって来た。
私は凛が使う部屋を入念に掃除する。
長年使っていなかった部屋だが、時折換気や掃除をしていたのでそれほど汚れてはいない。
だが彼女に少しでも快適に過ごして貰いたくて、私は必死だった。
階下から凛の声がする。
喜びを抑えて階段を降りると、柳が凛の肩を抱いていた。
私は怒りのあまり手にしていた掃除道具を落とす。
柳は更に悪ふざけをしたから、私は凛の腕を掴み2階の部屋に連れ込んだ。
柳は悪い男ではない。
それでも何があるか分からない。
気をつけるよう凛に言うと、彼女は小さな身体を更に小さくして泣きそうな顔で俯いた。
……何故そんなに落ち込む。
今にも泣き出しそうな凛。
どうしたらいい?
私は過去の知識を必死に探ったが、彼女を傷つけず愛する方法は見つからなかった。
こうなったら仕方ない。
どうして欲しいか本人に聞くことにした。
凛はキョトンとしていた。
当然の反応だと思う。
少し考えてから彼女は、私が傍に居てくれればそれでいいと言った。
どんな顔で受け止めればいいのか分からなかった。
凛も私を好いてくれている。
勘違いで無ければ。
堪らなく嬉しかった。
愛する人に愛されたのは初めてのことだった。
凛の気持ちは分かったが、どうすれば彼女を傷つけず愛することが出来るかは分からないままだ。
それとなく手を握ったりして反応を見る。
振り払いはしないが恥ずかしそうだ。
少しずつ慣らして行くしか無い。
生きている間に、どうにか結ばれたい。
凛と私では残された時間の感覚が違う。
急いては事を仕損じる。
焦りを悟られぬよう、私は今日も紳士を演じていた。
【 完 】
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